第9話 誘拐ラウンド2(4)


 振り下ろされたはずの小刀は空中で止まっている。女も、八重を取り押さえている数人も、とどめをさすことなく動きを止めていた。チセや少年を拘束している者たちも、その場に釘付けになっている。


 緊迫した場面だったはずだ。だが全員が不自然すぎるほどに固まっている。


「……ッ、……?」


 八重の身体も指先までピクリとも動かなかった。押さえつけられているとはいえ、動こうと思えば少しくらい動けるはずだ。けれど全身の血液が凍りついたみたいに、それこそ身体が動くことを拒否しているかのように止まってしまっている。


 チセの言葉に逆らえない。

 身体どころか、魂さえもひれ伏すような感覚。洗脳などではない。意志も理性もこえて、直感だけで分かっていたのだ。


 この世界に生きている限り、彼女に背くことは許されていない――。


 チセの瞳がますます輝きを増した。鮮やかな黄金色だ。蜂蜜のような美しい目に、敵も味方も全員が屈服していた。


「まさ、か……」


 たった一言で誰もを強制的に従わせてしまう力。黄金の瞳。百年の空位。


「まさか、まさか、まさか……」


 とても信じられない。だがすべてのつじつまが合ってしまうのだ。チセが追われている理由などこれ一つで充分すぎる。もし本当なら、チセは文字通りこの世界を変えてしまう存在だ。


「八重……!」


 掴まれていた腕を振りほどいて、這い出すようにチセが駆けだした。 

 後ろ手に縛られた彼女はふらふらと不格好に走る。何度もつまずきながらまっすぐに八重のもとへ。まだ誰も動けない。彼女だけが走っている。


 ふ、と身体が軽くなった。指先が跳ねて腕が上がる。ようやく動いた。


 それは敵も同じで、チセに手を伸ばした。逃げた彼女を捕えようと何本もの腕が迫る。八重は身体を跳ね起こす。素早く視線を巡らせて、人質の少年も置き去りになっているのを見た。


 いける、今なら――。

 八重は空を見上げ、声を張りあげた。


「来い――祭ッ!」


 視界の端、建物の上を素早く移動する何か。目にもとまらぬ速さで駆けまわり、宙へと飛ぶ。


 真っ白な毛並みは夕陽の色に染まっていた。八重の声に応えるように高らかに吠えた。飛び下りた小さな体躯は、チセめがけてまっさかまに落下する。


 着地までのわずかな時間で、祭の身体は光に包まれた。愛くるしい獣のような身体は消えて、代わりに現れたのは一本の槍だった。そのままチセに向かって落ちていく。


「待って、なんで槍⁉ なんでこっちにくるの⁉」


 チセは上を向いたままで叫んだ。慌てて避けようとする彼女に、八重は「死にたくなきゃ動くな!」と言った。


「いいか、おまえ絶対動くなよ! 絶対だぞ!」

「いや死ぬ、むしろ死ぬって!」


 相当無茶な注文だったがチセは足を止めた。ぎゅっと両目をつむったまま硬直している。だが槍が脳天に突き刺さるようなことはない。腕を縛る縄だけが器用に断ち切られて、自由になった彼女の手に槍が収まる。


 可憐な少女に、槍が一本。


 彼女はわけもわからずに棒立ちだ。だがすぐそこまで迫りくる敵の手。

 チセの身体が機械的に跳ねて、腕を振るった。


「――へ?」


 彼女の呆けた声が、間抜けなほど響いていた。


 槍をくるりと返して、柄をトンッと突き出す。背後はちらりとも見ていないはずだ。しかし彼女の肩を掴みかけていた敵の鳩尾に食いこんだ。


 ぐえ、とうめきながら敵が一人倒れる。まさしく手練れの一撃である。


「え、え、え?」


 一番驚いているのはチセ自身だ。ぽかんと口を開けたままで、しかし身体だけは踊るように動いた。腰を落として体勢は低く、足を払うように槍で薙ぐ。前を切り開いたかと思えば素早く駆ける。横から飛びかかってきた二人はあっけなくいなして地面に転がした。


「おお、動く動く」

「違う、私じゃない! これ私がやったんじゃないよ! 傷害罪とかにならない⁉」

「大抵のことは正当防衛って言えばどうにかなるんだよ」

「ほんとかなあ⁉」


 騒然とするなか、八重は置き去りにされている少年を保護した。「まっすぐ走れ、そうしたらこの区画を出られる」と伝えれば、少年は力強く頷いた。逃げていく彼に気が付いた敵は八重が蹴り飛ばす。


 チセがやってきて、すれ違いざまに八重の縄も切り裂いていった。ようやく解放されて、うっ血した手首をぷらぷら振った。それから口角を上げる。


 もはや八重を縛るものは何もなくて、あとはひっちゃかめっちゃかの乱戦だ。


「祭、こっちまで来い!」


 祭の名前を呼んだが、反応したのはチセだった。「うわ⁉」と言いながらも踵を返して、八重のもとまで駆けてきた。途中で敵を叩きのめすのも忘れない。


「懇切丁寧な仕事だな」

「本当に私じゃないんだよ、身体が勝手に動くの!」


 半泣きになっているチセが次々に敵をのしていく。八重は思わず笑ってしまいそうだった。


 チセがそばにきた瞬間、腕を掴んでくるりと場所を入れ替えた。

 羽織がふわりと浮く。彼女の前に出たついでに槍もかすめとって、今度は八重が構える。


「今、身体はどうだ?」

「あれ? もう勝手に動かない……?」

「それが祭の異能だからな」


 チセは「異能?」と首を傾げた。そういえば一度も説明していなかったな、と今さらになって思い出したが、己の怠慢には気付かなかったことにした。 


 祭の異能は二つだ。


 一つが槍に姿を変えること、もう一つが触れている者の身体を操ること――すなわち祭に身を任せれば誰でも槍の名手になれるのだ。どれだけ上手く操れるかは祭との相性次第のようだが、チセはよくなじんでいたように思う。


 その点、八重と祭の相性は史上最悪といっても過言ではなかった。だが八重にとっては大した問題ではなかった。


「さあ、選手交代だ」


 八重は挑発するように言った。

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