第8話 誘拐ラウンド2(3)


 チセが背を押されてゆっくりと歩かされる。まっすぐに屋への方へ向かってくる。拉致犯の一人がチセの腕を掴んだままだ。やがて八重の前にやってきて、空いた手で八重の腕も掴んだ。


「……?」

「動くなよ」


 チセと近づけてどうするつもりかと思えば、足元から浮遊感に襲われた。内臓が浮くような違和感に気持ち悪さを感じる。チセも同じなのか、「うっ」と唇を固く結んでいた。


「……なるほど、そういうことか……!」


 疑問に答えが示された。

 この人物は転移系の異能を持つテレポーターなのだ。


 恐らく触れているものなら、自分以外でも転移させることができる。境界を通らないのだから警備に引っかかることもない。もしかすると昼に取り逃がした一人はこの住人だったのかもしれない。上手く逃げられたことにも説明がつく。


 額を汗がつーっと流れた。


 となると、この状況は最悪だ。

 下手をすれば転移先は敵陣のど真ん中である。


 わずかに残っている逆転のきっかけも失ってしまう。敵地では応援も期待できない。今連れ去られるわけにはいかないのだ。何としてでもここでとどまらなければ。しかし人質が――。


 思考が混乱して、考えがまとまらない。一つでも選択を間違えれば終わりだ。上手くいくかも分からない算段にすべてを投じるべきなのか。

時間はじりじりと過ぎていく。


 八重は息を止めたままだったが、決断を迫られる。チセが不安げに八重を見つめていた。丸い瞳が揺れて、縋るような視線を向ける。そして八重の覚悟は決まる。


「――させるかよ!」


 ほとんど賭けだった。


 八重は膝を上げる。爪先は美しく弧を描いた。右足は敵の顎を捉えて、強かに蹴り上げる。脳天まで響くような一撃に、敵は仰向けにひっくり返った。


「おい⁉」

「こいつ!」


 呆気にとられてくれたのも一瞬だ。


 服ごと首根っこを掴まれる。そのまま押し倒されて、顔を地面に強打した。喉が潰れて息ができない。たらっと顎まで伝ったのは鼻血だ。

 起き上がろうとしても上から押さえつけられて動けない。じたばたもがくように暴れるが、縛られた手がビクともしない。


「八重、八重!」


 チセの声はほとんど悲鳴だ。あたりには怒号が響く。


「こいつ、やりやがったぞ!」

「気絶している――これでは転移ができない!」

「はっ、テレポーターがいなけりゃ、おまえらは逃げることすらできないんだろ……。今のはまともに入ったからなあ、目が覚めるころには全員捕まっているかもな」

「こいつ――!」


 そばにいた女が片手を振り上げた。うつぶせの八重の背中に、小刀を突き立てようとする。八重は数人がかりで押さえつけられているから、身じろぎもできない。切っ先は宙で震えている。八重は「やってみろよ!」と煽るように叫んだ。


 わずかに顔を上げれば、またしても地面に叩きつけられた。額が切れたのか、右目に血が流れて前が見えない。地面には血が点々と散っている。


 これ以外、どうすればいいのか分からなかったのだ。


 焼けるようなあの痛みを覚悟していた。恐ろしくなどなかった。とっくの昔に慣れてしまって、今さらそんな人並みの感覚はない。人質二人から視線を逸らせるならそれで構わなかったのだ。けれど想像していた苦痛はやってこなくて、八重は呼吸を止めた。


「やめて……」


 絞り出すような声だった。

 瞬きの次の瞬間、目の前にはチセの背中があった。


 小刀を持った女は突き飛ばされてよろけている。二人の間に割りこんだチセは、全身で庇うように八重の前にいた。


「やめてよ! 八重に酷いことしないで!」

「馬鹿――」


 きっと考えなしだ。何も考えずに飛びこんできてしまったのだ。

 そう思って顔を上げる。チセの肩はガタガタと震えていた。震えているのに、彼女は八重の前から動こうとはしなくて、立ち塞がるように八重の身体を隠している。


 息を呑んだ。

 なぜ、と思う。


 怖くないはずがない。チセの方がよっぽど弱くて、何ができるわけでもなくて、守られるべき存在なのだ。八重を助ける理由すらない。なのになぜチセは八重を庇おうとするのだろう。


 気づけば、その後ろ姿が過去の記憶と重なり合っていた。


 彼女の黒髪が、濃い青色にさえ見えてくる。

 そうだ、あのときも八重は――。


「おま、え」


 か細い声は届かなかった。


 チセはすぐに引きはがされる。「やめて、やめてってば!」と叫ぶ彼女は、地面に転がされて押さえつけられる。起き上がろうと手足をじたばた動かす。


 八重の目の前にちらつかされた刃は、再び振り上げられた。八重は目を閉じなかった。代わりに奥歯を噛みしめる。チセが目を見開いたままで見ていた。「見るな」と唇を動かすが、彼女は視線さえ逸らせずにいる。まるで信じられないものでも見るときのように。


 きっと残酷な光景だっただろう。

 怒号は止まない。


 刃が夕陽を浴びて、目の奥に刺さるくらいに輝いた。

 敵意が八重を傷つけようとする、まさにその瞬間。


「離して――ッ!」


 絶叫だった。


 チセの声だと分かるまで一拍かかるほどの絶叫。

 喉の奥が焼けそうなくらいに叫んでいた。それはただの懇願で、命乞いだったはずだ。


 なのに。


「――ッ⁉」


 誰一人動くことができない。


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