第7話 誘拐ラウンド2(2)
八重はそろりと足を踏み出した。女が数歩下がる。人質はまだ離さない。八重は大人しく後をついて行く。女は人気のない路地の方へ進んだ。
沈黙が続き、呼吸音だけがやけに響く。しばらくするとねずみが足元を通り抜けていくような暗くて細い道へ入った。止まるように言われて八重は足を揃える。
上げたままの手が痺れてきた。「手を下ろして後ろにまとめろ」と指示されたので、これ幸いと腕を下げた。
女は空いた片腕を伸ばす。すると手の先から霧が生まれて、女と同じ顔をした分身が現れた。
「なるほど、一度潰されても五分もあればまた作れるのか。便利だな」
分身が背後に回ってきて、八重の腕を縛り上げる。ますます動きが取れなくなってしまった。八重は困ったような顔で女に言う。
「人質は解放してくれ」
「駄目だ」
「無抵抗な子どもだぞ。もし殺しでもしたら、うちの連中は黙っていない。おまえたちの素性もじきに割れる。最悪町同士の戦争になるぞ」
「おまえが大人しくしていれば人質は殺さない」
くそ、と小声で呟く。人質さえいなければどうとでもできるが、少年のことを考えると下手に動けない。そのまま目隠しもされてしまって、人質の姿すら見えなくなってしまった。
「人質は無事だろうな」と訊けば、少年が「僕は大丈夫」と弱々しい声で返した。
身動きできずにいると、遠くから小さな足音が聞こえてきた。足踏みしているうちに敵が一人増えてしまったらしい。ひそひそと耳打ちで話す声も聞こえてくる。
「――、すでに準備は――」
「こちらは――この男は危険だ、仲間も二人やられて――」
「問題はない――だが異能次第では今ここで――」
会話がとぎれとぎれにしか聞こえない。だが最後「俺が自白させる」というのははっきり聞こえた。するといきなり目隠しをずらされて、目の前にあったのは若い男の顔だった。
嫌な予感がしてとっさに顔を逸らせる。
だが胸倉を乱暴に掴まれた。無理やり前を向かされる。視線が交わって、開いた瞳孔が目に飛びこんできた。
「おまえの異能はなんだ?」
答えるつもりなどさらさらないはずだ。なのに勝手に口が開いてしまう。はっ、と短く息を吐いた。これは男の異能なのだろう。
「――ッ」
止まらない。
まずい、ここで言うわけにはいかない。知られるわけにはいかない。
思わず唇を噛んだ。血の味がして、一瞬衝動が止まる。だがもう一度「おまえの異能は?」と訊かれるともう抗えない。
「お」
赤くにじんでいる唇がぱくぱく開く。喉が震える。
「俺の、異能は――」
黙れ、黙れ、黙れ。
必死に言い聞かせるのに身体が言うことを聞かない。
一言口にすると駄目だった。自分が把握している限りのことをぺらぺら喋ってしまう。それはもう饒舌に。すべて吐いてしまってから奥歯を噛みしめたが、すでに遅い。
異能は大切な情報だ。
特に八重のような人間は簡単に明かすわけにはいかない。だから五番町の住人にすらほとんど話していないというのに、あっけなく暴かれてしまった。
八重はうなだれたままで悪態をつく。銀髪が肩から流れ落ちる。
女が口元を覆った。「……これは」とひとり言のように呟いて、男の方へ視線を遣る。男は目を見開いたまま大声で笑っていた。
「傑作だ! こんな異能は他に見たことがないぞ!」
「まさかこいつも連れて帰る気じゃ」
「どうせ殺せないんだ、せっかくなら被検体として活用させてもらおう」
「危険すぎる! すでに二人やられている。今すぐにでも無力化した方が――」
「サンプルは多いに越したことはない。実験にはうってつけの異能だ。何より博士もそれをお望みのはずだろう」
ずらされていた目隠しの布を下げられる。また何も見えなくなって、あたりは闇の中だ。歩くように言われて仕方なく足を動かす。
不快感で苛立ちながらも推測は続けている。捕えた二人の仲間であることは確定だ。チセには何かしらの価値があって、危険を冒してまで連れ去ろとしている。実験という言葉も出ていた。チセの異能が実験をするのに役立つのだろうか。八重のものと同じように。
「……くそ」
情報が断片的すぎて答えが出せない。そうこうしているうちに敵の本拠地までたどり着いてしまったらしく、衣擦れの音がそこかしこから聞こえていた。数は十を超えている。
桂木の警備がザルであるとけなしたのは八重だが、ここまでの侵入を許していたのは予想外だ。おかげで身動き一つとれない。無事に戻れたら今度こそ皮肉たっぷりに責め立ててやろうと誓う。
靴の音が聞こえた。こちらに向かってきて、止まる。
「八重!」
自分の名前を呼ぶ、透き通るような少女の声。聞き覚えがあった。
「……チセか!」
思わず身を乗り出すと「おっと、動くなよ。あれも大事な人質だ」と制された。
「分かった、動かない。動かないから、あの子どもが無事かだけ確認させてくれ」
「いいだろう」
目隠しの布を下げられた。急に光が飛び込んできて目が眩む。
すでに日が傾き始めて、差しこむ光は橙色だ。やや開けた場所に、人気のない大きな建物が一つ。昔は学校として使われていたもののはずだ。人気はなく、隠れ家としては絶好の場所だ。
敵は自分の背後に二人、正面に六人、建物内部には三人ほど。奥に隠れているものまでカウントすれば数は知れない。
チセも同じように縄で縛られている。怪我こそしていないが、二人がピタリと張り付いていて、迂闊に動けば何をされるか分かったものではない。少年もいまだ人質のままだ。チセと合流できたのはいいが、これでは人質が増えただけである。
すぐにでも手を打たなければならない。
目だけ動かしてあたりを見回した。
「――っ」
少しで良い、隙さえあれば。
だがその隙を作ることが至難なのだ。
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