第1話 少女は落ちるし、用心棒は跳ぶ(1)
五番町と呼ばれるこの町は、木造家屋の中にちらほらと煉瓦造りの家が混ざり、独特の風情がある。ところどころにつるされた提灯にはまだ灯りがともっていない。日は高く、穏やかな昼下がりだった。
「ったく、人使いが荒い……」
町の大通りをぶらりと歩く八重がぼやいた。
着流しに羽織を肩からかけているだけの彼は、小さくあくびを漏らす。腰のあたりまで伸びた銀髪は乱雑に結われている。
もともと寝ていたのだ。布団も敷かずに畳の上でぐっすりと。それを叩き起こされ、「雨漏りするから屋根を直してくれ、今日中に」と引っ張り出されたので、身支度なんてまともにする気にもならなかった。少なくとも自分にはそう言い聞かせている――大抵似たような恰好をしていることは忘れて。
「俺は雑用係じゃないんだぞ、何を勘違いしているんだか」
ぐちぐちと文句を言っていると、肩に乗った獣がキュウと鳴いた。四足歩行の、長い耳を持った不思議な生き物だ。高い鳴き声には非難がこめられていて、肉球付きの足でぺしぺし頬を叩かれる。
八重は迷惑そうに振り払いながら、「祭、やめろ。しっかり爪を立てるな。わざとだろ」とぼやく。
「そもそも自分で歩けよ。重いんだよ肩が」
「きゅー」
「おまえ自分の体重知ってるか? この前おまえが寝てる間に秤に乗せてやったんだよ。五キロだぞ。歩いて痩せろ」
「キュイ!」
おそらく最後の鳴き声は、失敬な、とかそういった意味合いだろう。短い足で頭を叩かれ視界がぐわんと揺れる。存外痛かったので、八重は側頭部をさすりながら「いつか川に流す」と恨み言を言った。するともう一度頭をスパンと叩かれた。
「……っ、マジで流すぞ! そこに! そこのどぶに!」
「キュウウ!」
「歯茎を剥き出すな、可愛くないんだよ!」
首元を摘まみ上げて目の前でぶんぶん振り回した。祭も負けずと指に噛みついてきて、指からは血がタラリと一筋垂れてくる始末だ。大通りの真ん中で立ち止まって、一人と一匹が本気の喧嘩を繰り広げていると、あたりからは野次が飛び始めた。
「おーい、八重。真昼間からうるさいよ! そういうのは家でやれ!」
「虐待!」
「祭、そこだもっといけ。顔面を蹴っ飛ばせ!」
「焼き鳥できたから買ってけ!」
「束になって俺だけ責めるのをやめろ! あと最後のは宣伝だろ、タダ乗りするな!」
やいのやいのと繰り広げられる非難と応援は、いつの間にか人を集めている。見世物じゃないと言いたかったが、往来で喧嘩を始めたのは自分たちなので強くは言えない。
まったく騒がしい町であった。少しでも面白そうなことがあれば、あっという間にやって来てはお祭り騒ぎをするのが五番町の流儀である。
「祭、今日もふわふわで可愛い!」
「八重はその格好どうにかしろよ」
声援には明らかな偏りがあった。少なくとも見た目だけは愛くるしい祭は、街の住人からも人気で、集まった歓声に勝ち誇ったような顔をしている。上機嫌に鳴いているのがいい証拠だ。
「おまえ――」
八重は摘まみ上げた祭を睨みつけた。
しかし言いかけた言葉をプツンと切る。唇は薄く開いたまま、ぴたりと止めた。
「…………?」
そして耳を澄ました。
「何か、聞こえないか?」
話し声がざわざとした音に変わり、足音やら風の音に混ざる。その中でうっすらと聞こえような気がしたのだ。
祭が短く鳴いて、ぴょんと飛び降りた。そのまま駆けだしてしまう。「おい!」と呼び止めたけれど振り返りもしない。祭は四本足で颯爽と走っていくので、八重も仕方なく走り出していた。
「くそ、完全に俺を置いていく気だろ。こちとら二足歩行なんだぞ」
角を曲がって、裏路地へ飛び込んでいくのが見えた。すぐさま八重も曲がる。くねくねと複雑に伸びる道は光を遮って薄暗い。ずり落ちそうな羽織に腕を通しながらカーブを曲がる。
「――やっぱり、聞こえる」
八重はふと顔を上げる。
鐘の音だった。どこからともなく反響するような厳かな鐘の音だ。建物の隙間、ずっと遠くに見える高台の城で打ち鳴らされているのである。住人が踏み入ることを許さない禁忌の地で、ひとりでに。時報とは明らかに違う。地面から振動が伝わって全身が痺れるようだった。
今までの人生で何度か聞いたことがある。
これは合図だ。
世界の扉が開け放たれる、合図。
「祭! どこだ⁉」
遠吠えのような甲高い鳴き声が八重を呼んだ。
小さな体躯のはるか頭上、空中に現れたのは大きな扉だ。
最後にもう一度鐘の音が響いて、扉はゆっくりと開き始める。
門と呼ばれているそれは、世界と世界を繋げてしまう境界のようなものだ。大抵は前触れもなく突然現れ、どこかの世界から何かを落としたかと思えば、すぐに消えてしまう。つまり今回も同じで――。
開ききった門から何かが落下するのが見えた。
目を凝らす。人の形をしていた。
ぐったりとした身体が地面に向かってまっさかまだ。四肢はピクリとも反応しない。あのままでは地面に衝突して全身骨折はまぬがれない。
「よりによって空中かよ!」
つい叫ぶ。
「俺は二足歩行だって言ってるだろうが――!」
八重は近くの建物の階段を駆け上がった。高さがまるで足りない。柵から身を乗り出して近くの看板に飛び移る。それを足場にさらに高所へ。勢いだけで次々に跳ねて高度をかせぐ。
羽織が風を受けて膨らむ。
息を止めたまま、飛んだ。
八重の身体は宙に投げ出された。限界まで腕を伸ばす。指先が服にかすった。手を大きく開いてぐっとつかみ取る。力いっぱい引き寄せて腕の中に抱えこむ。
女――まだ子どもだ。幼さの残る顔つきは、気絶しているからかより子どもらしく見えた。紺色の服と胸元で結ばれた白いリボンは、こちらでは見覚えのない変わった形だ。
八重はぐるりと身体を回転させて、短く息を吐いた。
宙を舞う身体はどんどん落ちていく。
着地はいたって雑だった。片手で少女を抱えたまま、もう片方の手でバルコニーの柵を掴む。一度勢いを殺してから、ぱっと手を離して落下。両足に激しい痛みが走ったがすぐに治まる。息をついて、少女を横抱きにしたまま立ち尽くしていると、足元に祭がまとわりついてきた。
「キュイ」
「足はもういいから蹴るな。悪意あるだろ」
「きゅー?」
「こいつも気を失っているだけ――いや、今目ェ覚ました」
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