五番町の用心棒

月花

第1章

プロローグ


 途方もなく長い時間を揺蕩うように生きてきた。


 何のために生まれて、生きて、生きて、生きて、生きて――白昼夢でも見ているような日々だった。こんな人生に意味なんてなかったのかもしれないけれど、考えていなければうっかり世界中に絶望してしまいそうだったのだ。


 今すぐにでも投げ出したい命は、けれど捨てることなんてできなかった。それだけは八重の異能が許さないのだ。


 八重はひゅーひゅーとか細く呼吸する喉を鳴らした。


 汗で濡れた長い銀髪は首筋に張り付いて気持ちが悪い。何度も吐血したから着物はべったりと汚れていた。唇の端についた血はもう拭う気にもなれない。たらりと流れた鼻血は顎を伝っている。


 ボロ雑巾もいいところの身体はもうピクリとも動かない。

 息をするのもつらかった。


 深い森に木漏れ日が差しこんで目に眩しい。新緑の香りは血のにおいでよく分からない。光が混ざり合って目の前の景色は歪んでいる。ぐったりと木の幹に寄りかかっている八重は、重い瞼で瞬きを繰り返した。


「薬、を……」


 しゃがれた声で訴える。

 目の前にしゃがみこんでいる青年はにやにやと笑った。


「じゃあ、僕と契りを結んでくれる?」


 青年は解毒薬の入った小瓶をちらつかせた。


 卑怯だ、と思った。


 八重が毒で死に損なっていることを知っていて、解毒薬をダシに自分本位な契りを持ちかけているのだ。罵られてもまったく不思議でない蛮行だ。

 けれど八重は彼を指さすだけの体力を失っていたし、罵倒の言葉を口にすることさえ億劫だった。だから選択肢なんて最初から用意されていなかった。


 深い紫色の瞳は焦点を失ったままで青年を睨みつける。


 昔からずっとこうだった。

 八重にはろくな選択肢がなかったのだ。


 それでも選ばなければならなかった。選ばなければ余計に傷つくだけだから。


「――――」


 たまらずに手を伸ばす。


 光が散って、背中に刺すような痛みがあった。契約印が刻まれるのはこんなにも痛かったのだなと初めて知る。知りたくもなかったのに。


 八重が結ばれされた契りは、まったくふざけたものだった。


 一つ、十年間、五番町の用心棒として生きること。

 二つ、町の住人を傷つけないこと。

 三つ、町を守ること。


 八重の長い長い人生において後悔するべきことは山ほどあったが、こんな契りを結んでしまったことほどの愚行はない。もしあの時の自分に会えるならば、鳩尾を百回殴ってでも阻止しただろう。


 けれどそれは叶わない願いだったので、今日も八重は便利に使われるのであった。

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