第三章の裏話

普通、あるじくらいの上位武士ともなれば、一人でふらっと町に行かれたりはしない。

必ず自分の居場所は留守のものに知らせておき、いつ城からの徴集ちょうしゅうがあってもいいようにしておく。

そして外出する時は、大抵、従者が護衛している。

荷物持ちもこの従者がする。

あるじの場合、いつもはこの役目を、源次郎げんじろうか、私、清十郎せいじゅうろうにお任せになるのだが、今日は、一人で行くと仰せになられたそうだ。

荷物も自分で持つと背中にからわれたらしい。


あるじ、流石に一人ではいけません。」


源次郎げんじろう反駁はんばくして、


「では清十郎せいじゅうろうを呼べ。」


ということになったらしい。


「お呼びですか?」


「オババ様の所へ出かけ、その後、城下で飯を食うだけだが、今日は、そなたは雲隠れしていろ。」


「は。」


あるじが雲隠れという時は、誰にも姿を見せずに、付かず、離れずの距離で護衛をしろという意味だ。

敵に一人でいると見せかけ、油断を誘い、おとりになったりする時にそうなさる。


こういう時には源次郎げんじろうではなく必ず私にお呼びがかかる。

私がしのびだからだ。


―― しかし、オババ様の所へ行く道のりにも、城下にも、そうそう敵などおるまいに?


私は小首を傾げた。


あるじは最近、春が来ておられる。」


不意に源次郎げんじろうがコソコソとささやいた。


「は?」


「オババ様の所へ身を寄せている娘で、那美なみ様という。」


「その娘に会いに行かれるというのか?」


ウンウン、と源次郎げんじろうがうなずく。


「この前、薄桃色のふみが届き、その返事を書くように申し立てたのだが、ふみは性に合わぬので直接会いに行くと。」


「う、薄桃色だと? 直接会いに?!」


あるじが薄桃色のふみを読む姿がどうしても思い浮かばない。


「そなたに雲隠れしろと仰るのも、きっとあのデレデレ顔を見られぬように、だ。」


「あ、あるじがデレデレだと? あり得ぬ。」


「いーや、俺は見た。あんな顔をするあるじは初めて見た。」


そこにあるじの声がした。


「おい、清十郎せいじゅうろう。行くぞ。」


「は、只今、参ります。」


源次郎げんじろうは留守を頼んだぞ。」


「は、承知。」


「行って参る。」


「お気をつけて。」


オババ様の所でも、遠巻きから見守ってはいたが、なるほどデレデレだ。

普段は口を一文字かへの字にして、微笑むことなどないのに、フッと力が抜けるように笑みを漏らすことが何度もあった。

さらにコロコロ変わる女の表情に、あるじはタジタジである。

どんないくさの時もあんなアタフタとなさることはないのに。


―― しかし、那美なみ様といったか? 不思議な方だ。


別にあるじは全く女と話さないというわけでもない。

城に行けば、自然と武家の娘や、国主こくしゅの親戚の姫君たちとも会われる。

だが、たいていの城の女はあるじをさげすんでおられる。

鬼武者おにむしゃと呼ばれ、敵や魔獣を殺すこと夜叉やしゃのごとし、と噂を立てられているので(まあ、その噂もまんざら嘘ではないが)、身分のある女たちはたいてい野蛮な獣をみるような目であるじを見る。

身分が高くない女たちはたいていあるじを見て怖がって、震えて、会話もせずにどこかに行ってしまう。


―― しかし那美なみ様は違うな。


身分や家柄や素性や見た目など一切気にせずに、あるじの人柄だけを見ておられる気がする。


そのうち、城下に行くと、あるじは、先日の戦場いくさばで見かけたある男を、追跡するようにと命じられた。


―― やはり、源次郎げんじろうの思い違いではないのか。あるじは何か大切な仕事をされている。


―― きっと那美なみ様と一緒に行動しているのも敵を欺くためか...


しかしその直後に、頬を赤らめながら那美なみ様の肩を抱いて、少しぎこちない様子で鰻屋を出てきたあるじを見て


―― いや、仕事もあるが、やはりそれなりにお楽しみなのでは…


という考えに変わった。


兎にも角にも、雲のように隠れて、あるじの命令通りに、この男の尾行に専念しよう。

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