第106話 毛利元就

 瀬戸内海を牛耳る村上水軍から大阪湾を奪い取ったが、その後天皇の命により前将軍足利義輝を今川館(駿府城)まで送り届けたがその隙を突かれて大阪湾の制海権を村上水軍に奪いかえされた。

 大阪湾を奪われると大阪はもちろんのこと京都や琵琶湖までの航路を失う事になる。

 陸路があるじゃないかって?

 荷物を送るには船で送った方がはるかに大量に送れる。

 大阪湾の制海権を村上水軍から再度奪還する為に俺は永禄2年(1559年)浮きドックを旗艦としさらにはガレオン船型戦艦4隻や日本最大の和船・安宅船に蒸気機関を載せた5隻等を主力艦隊として出陣した。

 大阪湾での戦いで村上水軍を打ち破り大阪湾の航海権を取り戻した。


 俺は隙を見せれば再度大阪湾の航海権を奪いに来る小癪な村上水軍を瀬戸内海で打ち破り瀬戸内海の制海権まで奪い取る行動にでたのだ。

 村上水軍は能島・因島・来島の三つに分かれ能島・因島本拠地を避けるようにして来島海峡を抜けようとしたところ、そこには来島村上水軍だけでなく能島・因島の村上水軍まで来島に集結し、さらには村上水軍と共同戦線を張る毛利家の小早川水軍も主力艦の安宅船まで持ち込んで我が艦隊を待ち受けていた。


 狭い来島を十重二十重と大小さまざまな村上水軍と小早川水軍の艦船が停泊していた。

 その身動きの取れない艦船に対して熱気球による爆撃攻撃によりこれを撃破した。

 これにより後年「来島の戦い」と呼ばれる戦いを制した俺は村上水軍だけでなく毛利家とも戦後処理が必要になったのだ。


 ここで俺は欲が出た。

 これが上手くいけば後は日本国内の海運業の独占に伴う日本1周の・・・江戸時代から明治時代にかけて行われた北国廻船の航路を開発して蝦夷地(北海道)を目指す・・・旅に出る事だ。

 群雄割拠の戦国時代、海運業を織田家が独占しようとすれば村上水軍や小早川水軍を打ち破ったがそれ以外の海賊を討伐し、さらには主要港湾を持つ戦国大名などに対して砲艦外交を行って、その主要港湾施設を織田家が使えるようにする事だ。


 村上水軍は来島の戦いで大小さまざまな艦船を爆撃により灰燼と化した為に牙を抜かれた虎の状態で俺に服従するしか手が無くなった。

 ただ共同戦線を張った毛利家の小早川水軍はいくら小早川水軍の総帥小早川隆景が無条件降伏をしたとしても小早川隆景の実兄で毛利家当主の毛利隆元と父親の毛利元就は黙ってはいない。

 中国地方でも最大の力を誇った大内義長を滅ぼして勢いのあるこの二人に面会することになったのだ。


 面会して講和するとして何かこちらが優位になる有意義な情報は無いか?

 大内義隆を打ち破った事から毛利家が中国地方で残った最大の敵となるが尼子家である。

 史実では毛利元就は尼子家家臣団の絆を壊しお互いが疑心暗鬼を生じさせて内乱状態にして尼子家を打ち破った。

 現在尼子家は強固な家臣団と銀という重要な戦略物質を生み出す石見銀山を有していることから経済的にも盤石な体制である。


 この石見銀山攻略を餌に講和を持ち込む事にした。


 ところで毛利家当主毛利隆元と毛利元就の居城は郡山城(現在の広島県安芸高田市)であり五箇(現在の広島:広島は毛利輝元が城を造った際に命名)から北西約20キロの地点にある。

 俺は旗艦の浮きドックを五箇への航路をとり、五箇の沖合で停泊しそこから毛利家の居城郡山城へと行軍を開始した。


 五箇までの航路は順調であったが問題は五箇から郡山城までだ。

 現在の地図で見ると五箇のある広島駅から郡山城までは直線距離で約20キロであるが、そうは言ってもこの戦国時代は舗装も無ければ、曲がりくねった細い山道でそのうえ昨夜半さくやらいに降った雨で道路事情が悪化していた。

 ぬかるんだ細い曲がりくねった山道では京都で使えた馬車の利用などは出来ない相談だ。・・・ただ馬に乗ると敵地の中を行くから、本当にどこからでも狙撃されそうで鉄板に囲まれた馬車が恋しい。

 たかが20キロと言うなかれ、輜重隊の荷馬車がぬかるんだ山道で少し遅れたために郡山城にはその日のうちにつけないで、郡山城近くの小高い丘の上で野営することとなった。

 テントが張られ、テント内に簡易ベットが置かれる。

 問題は水だが遅れていた輜重隊が川の水を運んできた、それでも春になったばかりなのでこの川の水を浴びるわけにはいかないので風呂を沸かす。


 織田軍は女性兵士も多い。

 特に医師や看護師(衛生兵)として戦場を駆け巡っている。

 また中には猟師の権瓶の娘で鉄砲の名手・結のように陸戦隊(鉄砲隊)100人の小隊長にまでなってこの行軍に参加している者もいるのだ。

 それで風呂は男風呂と女風呂の二ヶ所だ。・・・混浴にすると風紀が乱れて行けない。・・・と言いながら俺はかよさんや桜子さんと女風呂を貸切にして浸かって別の汗をかいているが♡♡♡へへへ。

 捕虜として同行している小早川隆景も村上武吉も簡易式の風呂・・・彼等は当然男風呂だが・・・に浸かり、テントの中の簡易ベットで寝る。


 この時代お湯に入る風呂等はほとんど無い!あっても蒸し風呂で、温泉湯治として有名なのは『武田信玄の隠し湯』で信玄の本拠地である甲斐の国(山梨県)に点在し、この風呂は武田信玄が配下に対する褒美として使わせたり健康等を考慮して入れさせていたようです。面白いのは武田信玄と何度も戦場で対立していた上杉謙信も『謙信の隠し湯』として関燕などの温泉地に点在していたのです。・・・閑話休題。


 何はともあれ風呂に入り、この時代隙間風の吹き込むあばら家の板の上や行軍途中なら土の上でごろ寝しているのですが、織田家で使用するしっかりしたテントの中に入り簡易ベットで寝る方がどれほど疲れをいやすことか。

 朝日が昇り朝食をとる。

 行軍などの軍事行動では基本的に食事は皆同じもので、兵は並んで容器に食事を入れてもらうが、小隊長以上の者、俺や捕虜にも当番兵が食事を盛って持ってくる。

 

 食後にイングランドの陸軍を模した第一種軍装を陸戦隊に配り着替えさせる。

 黒いフロックコートに白いズボン、頭には黒い三角帽子、足にはブーツまで履かせる。

 この軍装のいでたちはキャサリンやグランベルの乗ってきたガレオン船に積み込まれていた陸戦隊の制服を利用・採用したものだ。

 俺と信包、猿が馬に乗り303名の第一種軍装に身を包んだ陸戦隊が進み。

 その後ろを10台の荷車を馬で曳かせた輜重隊が進む。

 ついに毛利家の居城・郡山城の城下に踏み入った。


 郡山城では毛利家当主・毛利隆元と毛利元就は渋い顔で俺達を迎えた。

 毛利家は天文22年(1555年)に大内義長を擁した陶晴賢を厳島の合戦で破り、この両名を自死に追い込み大内家支配の周防国(現在の山口県)の仕置き(領民支配)を始め日の出の勢いという所での負け戦だ。

 それも村上水軍の総帥村上武吉だけでなく毛利元就の三男で俊英と謳われている小早川水軍の総帥小早川隆景が捕虜となって俺の後ろで項垂うなだれているのを見れば苦虫を嚙み潰した渋い顔にもなるというものである。


 それに今回の戦いでは村上・小早川水軍の大小さまざまな船が来島に集結して、村上・小早川水軍のそれぞれの旗艦の安宅船を含むそのおよそ半分が爆撃と砲撃で焼け落ちて水没してしまった。

 これ以上の被害拡大を阻止するため村上・小早川水軍を率いる村上武吉も小早川隆景も織田水軍に対して無条件降伏を願うしかなかったのだ。

 一方的で完全な負け戦である、毛利隆元と毛利元就が渋い顔をするのもわかる。

 負け戦の代償は大きい、毛利家がせっかく手に入れた瀬戸内海の制海権を失い、やっとの思いで手に入れた周防国を寄こせと言われるかもしれないのだ。

 毛利元就は俺との面会に


『飛んで火にいる夏の虫、郡山城内で殺してやる。』


と思って兵を配したが、俺の後ろを見たことも無い服装で、この時代の新兵器の火縄銃を担いだ兵(陸戦隊)が300人以上もついてきたいたので断念した。

 面会の場には俺の後ろに猿(木下藤吉郎)、織田信包と猟師の権瓶の娘結を含む3名の陸戦隊小隊長が武装したまま控えている。

 俺はその面会の場で


「毛利家が喉から手が出るほどに欲しがっている、尼子氏が支配下に置く石見銀山を手に入れるのを手助けをしてやる。」


と毛利家にとっては飛びつきたくなるような有利な話から始めたのだった。

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