第99話 動き出した織田水軍
永禄2年(1559年)俺は24歳になった。
元将軍足利義輝を今川館(駿府城)まで海洋丸で送ったところ俺の隙を突くようにして大阪湾の制海権を村上水軍が奪ったという凶報が入った。
村上水軍は瀬戸内海一帯を牛耳る海賊だ。
彼等によって本拠地の尾張周辺から京都・大阪への海運業を封じられ、俺とゆかりの深い根来寺周辺までもが抑えられたことになる。
史実では織田家自体が海運業の経済力によって天下統一寸前までいったのだ。・・・う~ん本能寺の変さえなければ天下統一できたのに!
村上水軍は明らかに俺にとって敵になったのだ。
彼等は何故強気になって攻勢をかけてきたのか?
織田家の通商船を炮烙火矢で攻撃してきたというのだ。
炮烙は現代で言えば手榴弾で投擲して船を燃やすのだが・・・今回の炮烙火矢は火縄銃や弓矢を使って飛ばしてきたというのだ。
火縄銃の方はどうやら
弓矢の方は先に俺が初陣のリベンジ戦で吉良大浜城の城門を爆砕したことがあるのでこれをヒントに使ったのだ。
何とかしなければという思いで桑名新港まで来ると吉報も届いた。
それは波切城で蒸気機関を開発していたサーシャから船に載せれるような蒸気機関の開発に成功したというものだ。
それもその蒸気機関をこの時代では最大の和船である安宅船5隻に載せて見たというのだ。
その安宅船はガレオン船よりも一回り小さいものの全長55メートル・・・史実では琵琶湖にこの大きさの安宅船を持ち込んで比叡山延暦寺の攻略に使ったのだ。・・・で、蒸気機関の他には帆走も可能な船で『尾張丸』『駿河丸』『三河丸』『遠江丸』『桑名丸』と命名した5隻である。
この5隻の船は鋼材だけで船体を作りたかったがリベット技術がそれ程発達しておらずリベット打ちの鋼造の船を試験航海中、そのリベットの接合部で破断したりしたため海洋丸と同様に木造船に鋼材を貼り付けたものにしたのだ。
リベットよりも接合部で破断の起きない溶接で鋼造の船を造りたいものだ!
溶接か・・・溶接と言えばアーク溶接・・・う~ん電気が欲しい!・・・なんて悩みながら航海を続けているうちに波切城についた。
その港の沖合には異様な光景が広がっていた。
波切城よりも大きな巨大な浮き城が浮かんでいる。
それは琵琶湖で使ったサルベージ船を母体にした浮きドックである。
浮きドックの中に全長120メートル幅15メートルにも及ぶ建造中の海王丸が楽々と入っているのだ。
その周りを織田家ガレオン船型旗艦海進丸、ヘンリー8世号及び欧州丸やそれよりも小振りな安宅船5隻が取り囲み、安宅船よりもさらに小振りでヨットの帆を張った関船5艘が頻繁に物資搬入のため波切城と浮きドックの間を行き来しているのだ。
浮きドックに海洋丸を横付けさせると浮きドックの全容が見えてきた。
浮きドックは5つのパーツからなり、先頭を琵琶湖で使ったサルベージ船、建造中の海王丸の左右にサルベージ船と同じ大きさの
左右の艀の上には建造物が建ち並びまるで一つの工場のようになっている。
海王丸から俺が降りるとニコニコ顔のサーシャと色白で如何にも学者風の痩せた男が出迎えた。
この学者先生が大隅益光で蒸気機関を完成に導いた立役者だ。
その後ろには俺の親父殿がニヤニヤと笑いながら
「これらの艦隊を使って村上水軍を壊滅するか。
それに織田家は海運業が看板だ。
ついでにこの船団を引き連れて日本一周と行こうではないか。」
織田家は商売、それも海運業で力をつけてきている、日本の統一その一環として日本の海運業の独占を親父殿が示唆したのだ。・・・う~ん親父殿は元気なものだが元将軍足利義輝を塚原卜伝の元まで送っている間に凶報がもう一つあったのだ、親父殿と同様に頼っていた将官大学の学長で黒衣の宰相と名高い大原雪斎の容態が悪くなり亡くなったというものだ。
史実では太原雪斎は弘治元年閏10月10日に亡くなったとあるので。史実よりも4歳長い享年64歳であった。
太原雪斎から将官大学で徳川家康をはじめとして薫陶を受けた学生は多い。
なお将官大学2代目学長は少し頭が薄くなりあだ名通り金柑頭になってきた明智光秀である。・・・光秀は紀伊半島全体の領主に指名しているが将官大学の学長にも任命してある。光秀の名代は本能寺の変で真先に謀反を支援した、あの有名な明智秀満だ。
明智光秀が黒衣の宰相、大原雪斎遺品の黒色のマントを羽織って浮きドックに乗艦している将官大学の学生達に講義をしている。・・・講義の内容は
この砲艦外交は日本国内の海運業を織田家が独占する事を目論んでいる。
手始めに瀬戸内海で有名な海賊、村上水軍の解体だ。
村上水軍は能島村上家・因島村上家・来島村上家に別れる。
この3家合同した際の村上水軍の棟梁は村上武吉であり、彼が有名になったのは天文22年(1555年)大内義隆を殺し大内義長を擁した陶晴賢と安芸吉田の毛利元就との間で行われた
『厳島の合戦』
の際に頭角を現したのだ。
この戦いでは村上武吉は毛利元就の小早川水軍の提督浦兵部から小早川水軍の棟梁小早川隆景の緻密な作戦を聞き毛利家に味方する事にした。
戦いは風雨の中で行われた。
敵将陶晴賢が
『この風雨の中では敵は攻めてこない。』
との心の隙をついて村上武吉は果敢に攻め込み、大内義長と陶晴賢を自死に追い込み勝利に導いたのである。
・・・等と言うものだ。
村上水軍の拠点は今で言う広島県尾道市から愛媛県今治市を結ぶ橋で出来た
『瀬戸内しまなみ海道』
の間に点在する島々の中にある。
能島、来島は小さな孤島でその島自体が海賊の城である。
因島は瀬戸内しまなみ海道の因島大橋と生口橋との間にある瀬戸内海では9番目の大きさを誇る島であり、島内には6か所もの城跡が点在する。
能島村上家・因島村上家・来島村上家の海賊の拠点が瀬戸内海を縦並びで存在する事により瀬戸内海の商船等の航行が阻害されている。
それに現に大阪湾を航行していた織田家の船を攻撃しているのだ・・・許せぬ!
俺の親父殿が推奨し明智光秀が将官大学の学生達に説明した
『日本国内の海運業を織田家が独占する事』
の最初の障害に村上水軍はなったのだ。
今後織田家が行う海運業の商船等が瀬戸内海を安全に航行するためには村上水軍を懐柔か壊滅しなければならない。
それにもう一つ村上水軍の陰に隠れているが名将小早川隆景が率いる毛利の小早川水軍もそうだ。
名将小早川隆景は毛利元就の三男として天文2年(1533年)に生まれて、天文13年(1544年)に小早川に養子に入り、同じく養子に行った兄の吉川元春と共に「毛利の両川」と恐れられた。
永禄2年(1559年)では小早川隆景は26歳である。
この砲艦外交には日本各地にいる優秀な人材の確保も目的としている。
その一人として名が上がったのがこの小早川隆景である。
群雄割拠した戦国乱世のこの時代、織田家が海運業を独占するためには制海権を手に入れなければならない。・・・どうしても日本を一周しながら他国を脅してでも服従させて制海権を手に入れる。その方法として巨艦による砲艦外交だ。
浮きドックに大量の資材が載せられる。
広大な浮きドックの一つには豪華な室内を持った館が建っている。
必然的に親父殿や俺達もその館に入ったのでこの浮きドックが旗艦となって日本一周の旅が開始された。
浮きドックを蒸気機関を載せた安宅船がタグボートのように押したり曳いたりしながら出港するのは少し間が抜けて見えるので・・・滑稽だ!
浮きドック自体も少しでも動けるようにしなければ・・・う~んサーシャや大隅益光もちゃんと考えていた。
浮きドック自体にも蒸気機関が載せられて自走が可能だが敵の目を欺くために暫くの間は航海に使用しないのだ。
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