第96話 永禄2年京の都

 弘治3年(1557年)織田家には俺の他に皇女松様とサーシャという転生者2名が加わった。

 翌年・弘治4年(1558年)に帰蝶の1周忌を終えた3月には、元号が永禄元年と改元した。・・・う~ん後奈良天皇の崩御は弘治3年なのにどうして?🕊🕊🕊理由は朝廷と室町幕府の協議の上に元号の改元が行われていたからだ。史実では足利義輝を追放した三好長慶が室町幕府の代表で相談したものが、今回は室町幕府の代表が三好三人衆で織田家の名代として松永久秀が加わったのである。・・・この頃には織田家の名代と本人も豪語している。

 永禄元年と元号が変わるとすぐに、朝廷の勅使として皇女松様の祖父である関白二条晴良が俺の元に訪れた。

 その勅使がもたらした勅旨の内容が転生者皇女松様を織田家の俺の所に正式に嫁入りさせることだ。・・・「皇女松様」はまだ8歳児だがこれで皇室の籍から離れたので、これ以後は「松様」だ。


 同年4月海進丸型の2番艦海洋丸が進水した。・・・鉄板を張る際に設計変更がなされて海進丸よりもスマートになり、かなり形状が変わったが世に名高い織田家の鉄甲船第1号の御披露目だ。

 無事に海洋丸が進水式を終えたことから、今度は旗艦海進丸も鉄板を張る作業に加えて海洋丸と同様の改修作業に入った。

 その新造船・海洋丸に俺と松様が乗って京都御所への結婚の挨拶を行う事になった。


 俺と皇女松様との結婚の報告を表立った名目にした砲艦外交の為に京都の町にある御所を再度訪れた。・・・砲艦外交の目的の相手は足利義輝のあとを継いだ将軍足利義昭で、将軍職に就いた時は


「織田殿、織田殿。」


と言ってすり寄っていたものが最近では


「将軍に弓引く織田家を討伐する。」


と言って俺に対する討伐令を至る所にばら撒き世に名高い


『織田信長包囲網』


を構築しようとしているのだ。・・・う~ん世に名高くなってきた織田家の忍軍や織田家の名代を自認する松永久秀等からも報告が入っている。それに


「足利義昭が三好三人衆を指揮して俺が京都の町に入れば包囲して嬲り殺しにする。」


等という物騒な計画もたてているそうだ。

 それを防ぐ為に結婚報告を兼ねた砲艦外交を行う事にしたのだ。

 京都の町では都雀たちが


「第六天の魔王(織田家)が所有する黒光りする船が淀川から琵琶湖に向かってまたも遡上するという。

 比叡山延暦寺の焼き討ちしたようにその船が今度は京の町を火の海に変えるかもしれない!?」


等と言って震えあがっていた。

 比叡山延暦寺の焼き討ちは京の都の人々を僧兵よりも強い織田信長を意識させたようだ。・・・以前からあった第六天の魔王の話が強化されたようだ。

 その海洋丸の黒々とした船のシルエットが御所から15キロ程しか離れていない伏見近くの宇治川に浮かび上がった。

 海洋丸はそこで


『ガラガラ』


と音をたててびょうを降ろしたのだ。

 砲艦外交・・と言ってもまさか御所に向かって海洋丸の主砲をぶっ放すわけにはいかない。

 俺の代理人を自認していたはずの松永久秀は将軍足利義昭が討伐令を発した途端、京都の町を離れて大阪城(旧石山本願寺)の建築現場に逃げ込んだ。

 俺の元に勅使としてきていた関白二条晴良は密かに御所に入り天皇自ら


「発砲の許可」


を取り付けて、発砲時間を相談した。

 狙うは諸悪の根源、新将軍足利義昭の居城である二条城だ。


 海洋丸の前後二つの砲台に据えられた主砲の砲口が二条城に向く。

 発砲の刻限が来た。


『ズードーン』『ズードーン』


と榴弾・・・焼夷弾でも良かったが・・・これを使えば二条城だけでなく、御所どころか京都の町自体に延焼被害を受ける恐れがあった。・・・が発射された。

 それが二度三度行われた。全弾見事に命中して二条城を瓦解させた。

 着弾状況などについては織田家のスパイ学校出身者が織田式信号を使って連絡を受けている。

 着弾に驚き新将軍足利義昭は皇女松様の兄妹である正親町天皇を頼った。

 新将軍足利義昭は比叡山延暦寺や石山本願寺の僧侶から


「織田信長は第六天の魔王で、遠く離れた所からでも不思議な力を使って城を壊し、船を沈めることが出来る。」


等と言う世迷い事を聞いていたが、我が身に起こって初めて織田信長と敵対してはいけないと身に染みた出来事だった。・・・それでも将軍足利義昭は裏切り続けるのだ。史実でも天正16年(1558年)ついに足利義昭は俺によって追放されることになった。

 追放されても足利義昭は長生きで、生まれが天文6年(1537年)で死去が慶長2年(1597年)だからなんと60歳まで生きたのだ。


 この正確無比な艦砲砲撃により二条城が瓦解してそこに住まう将軍足利義昭は御所に逃げ込み、将軍足利義昭の後ろ盾になっていた三好三人衆も驚いて京都の町から逃げ出して出身地である阿波の国(四国・徳島県)にまで逃げ込んだ。


 俺と松様が砲撃後、挨拶の為に京都御所に訪れた際も御所に逃げ込んでいた足利義昭はちゃっかりと上席に座ってを決め込んでいる。・・・この慣用句に使われる「半兵衛」とは俺の配下の竹中半兵衛(軍師)のことだ。

 足利義昭をどうするかはもう少し様子を見てみるか。・・・時々恨みの籠った目で俺を見るので彼の暗澹あんたんたる未来しか見えないのだが・・・。


 御所内で今上天皇から


「先の年と今年二度も都に火災が発生した。

 どうか貴殿の力でこの都を復興させてはもらえないか。」


と殿上人らしくその時は良く分からない言葉遣いで命じられた。

 将軍足利義昭の住まいの二条城も復興してくれと言うのは癪に障るが、京の都にあった俺の直営店の京屋、尾張屋、近江屋それに欧州屋を再建することがこれによって許されたのだ。・・・う~ん良しとするか!それに復興するためにと、新たに復興の為の土木建築を主体とする俺の直営店である遠江屋の京都支店も出店することが出来たのだから万事めでたしめでたしだな!!


 実は京都の食生活を支えている三河屋のみは前回の松様の京都脱出の時は火を付けて焼かなかった。・・・京の都にも三河屋が営業する割烹料理等の高級飲食店から庶民の味方の屋台の蕎麦屋等が出店している。

 ただし、天武4年(675年)4月天武天皇の「肉食禁止の詔」を出して肉食を禁止した影響で天皇の住むお膝元の京の都ではいまだ焼き肉店や焼き鳥店の方は出店できていない。


 松様御用達の古書取り扱いの京屋については、皇女時代に古書の売買で生活が潤ったことを知った公家衆が


「古書などの貴重な文化は金になる。」


と言って押し寄せてきた。・・・古書だけでなく古物工芸品も持ち込まれた。


 集まった古物工芸品を見て、これだけ文化の香り高い京都ならではの大学、京都芸術大学を創設する事にした。

 京都芸術大学には美術館だけでなく、音楽堂も併設した。

 音楽についてはイングランドやポルトガルのガレオン船からバイオリンやトランペット等の楽器が見つかり、キャサリンやグランベルだけでなくサーシャも船に残っていた楽譜を見ながら色々な楽器を奏でることが出来た。

 また京都には日本古来の伝統文化である雅楽奏者も多数いたことから京都芸術大学の音楽科では、雅楽や西洋音楽等も学べ学生だけでなくそこで教鞭をとる教授たちによる定期音楽会それに入学式や卒業式における音楽会等が大学に併設された音楽堂で公演され好評を博していた。

 絵画も色々と集められたが、織田信長同様俺も刀剣と茶碗を集める趣味がある。

 名のある刀工や陶工が集められて、年に一度展覧会が開催される。

 特に俺が腕に惚れ込んだ刀工や陶工達は京都芸術大学の教授の地位に就けるだけでなく織田家御用達として栄華を極めたのだ。


 それにヨーロッパ諸国の洋服を販売する欧州屋の復活は若い貴族達に歓迎された。

 音楽堂では時々舞踏会までもが開かれてそこに欧州のドレス・・・コルセットのような非人道的な物はつけない・・・姿になった女性達が舞い踊ったのだった。

 京の都は俺の手によって新たな近代的な都市として復活を遂げていった。

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