第93話 比叡山延暦寺焼き討ち
比叡山延暦寺の坊官の身柄と寺領を交換するために赴いた弟秀孝を切り殺されたことから端を発した弘治3年(1557年)に比叡山延暦寺の焼き討ち事件が勃発した。・・・う~ん原因は違えど史実では比叡山延暦寺の焼き討ちは元亀2年(1571年)に起こったのだから13年も早まった事になる。
俺とて鬼ではない!時間的猶予を与えたが返答がない。
それで先ずは比叡山延暦寺の門前町であり交易の港町として栄えていた坂本の町に対して俺の率いる織田家の艦隊による艦砲射撃が行われ坂本の町の至る処から火の手があがり、その火がみるみるうちに大きく広がって坂本の町全体を紅蓮の炎が包みこんだ。
次に狙うのが比叡山延暦寺の伽藍や宿坊である。・・・元亀2年の比叡山延暦寺の焼き討ちで後年の調べで実は焼き討ちに遭ったのが根本中堂と大講堂のみであったという。
今回は狙うのは根本中堂や大講堂ではなく、俺に牙を剝く僧兵が多数居住する宿坊が目標だ。
事前に織田家の忍軍が何処に沢山の僧兵が詰めているかは調査すみだ。
『キリキリギリギリ』
と音をたてながら織田家の艦隊の砲口が宿坊に向けて狙いが定められる。
ついに比叡山延暦寺に対する艦砲射撃が開始された。
『ズドーン』『ズドーン』『ズドーン』
と織田家の各船から砲撃が開始され
『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』
延暦寺の宿坊に対して情け容赦なく砲弾が落ちる。
俺を返り討ちにしようと宿坊に立て籠もり弓を張り刀や槍の刃を研ぎ澄ませたいた僧兵もろとも吹き飛んだ。
その雷のような音と燃え上がる炎は遠く京の都からも見えたのだ。
京の都に当時の天台座主の堯尊法親王は俺の勧告を受けて父親の伏見宮貞敦親王のもとに逃げ込んでいた。
燃え上がる比叡山延暦寺を見て父親の伏見宮貞敦親王と共に帝・後奈良天皇のもとに
「このままでは古刹延暦寺が無くなってしまう!なにとぞ織田信長殿との和解の仲介をお願いしたい。」
と願い・・泣きながら訴えた。
後奈良天皇は皇女松様の父親であり、皇女松様の実母の実家は五摂家の一つ二条家である。
二条家の当時の当主は関白を務める二条晴良であった。・・・前にも書いたが史実では数年前に関白を辞任しているが、俺が信長に変わった事から色々なところでひずみが出たのか歴史が変わって晴良は関白をそのまま続けている。
その二条晴良を使者に天台座主の堯尊法親王を連れて俺の元に派遣されることになった。
二人は京を出てから瀬田の唐橋付近で沈没した織田家の船を警戒している船団に接触して交渉の結果、織田家の化け物船に乗り込み織田家旗艦に乗艦を果たした。
織田家旗艦海進丸の船長室で皇女松様同席のもと二条晴良と天台座主堯尊法親王との面会に臨んだ。
天台座主の堯尊法親王は
「坊官については何処へ行ったか見当たらぬ。・・見つけ次第そちらに身柄を引き渡す。
寺領については半分程直ちに織田殿に引き渡す故、砲撃を止めてはもらえぬか。」
と懇願された。
それに対する俺の返答は
「坊官の身柄も渡さず、寺領は半分だと!
俺の実の弟秀孝を殺されているのだ!
と居直って見せた。
すると関白二条晴良が
「織田殿の怒りはごもっともな事だ。
どうだろう堯尊法親王、寺領は全て引き渡す事にして、残った僧の当座の資金を織田殿から戴くという事にしたら。」
・・戦後処理を考えたら、戦勝国が受け取る賠償金をチャラにして逆に金まで取ろうといのか?等と俺が思っていたら二条晴良は続けて
「今後比叡山延暦寺の伽藍は根本中堂と大講堂のみを残し、宿坊を持たず今いる僧兵の解雇。
今後は僧兵の様な軍事力を持たない。
ただ今いる僧兵にしても何も渡さずに解雇すればすぐに夜盗や湖賊に成り下がる。
それらの者の当座の費用も含まれると思ってもらいたい。
ただ降伏の勧告を受け入れず抵抗する者がいれば比叡山延暦寺に渡す金を減額してもらってもかまわない。」
というものであった。
取り決めによって支払いについては境港で取引の際に儲けた何万貫もの金が織田家の化け物船1艘に積まれているのでこれを使う事にした。
これで比叡山延暦寺の寺領は外見上は俺が買い上げてさらには天皇のお墨付きで織田家のものになったのだ。
史実の比叡山延暦寺の焼き討ちの原因の一つであった織田家が比叡山延暦寺の寺領横領よりも世間的には聞こえは良いようだ。
燃え上がり始めた比叡山延暦寺への砲撃が中止されて、瓦解した坂本の町に織田家の現代風のヨットの帆を張った関船が横付けされて、それに乗る船員たちと天台座主の堯尊法親王が坂本の町や比叡山延暦寺へと赴き
『帝の調停により延暦寺は降伏!
寺領の接収と僧兵の解雇!僧兵にあっては武装解除のうえ見舞金が出る故、軽挙妄動に走るな!』
と告げられていく。
それでも中には天台座主の堯尊法親王を警護する船員に切りかかろうとする僧兵がいる。
船員が狼煙を上げるとその付近の宿坊が現代風のヨットの帆を張った関船からの艦砲射撃が行われ粉微塵に吹き飛ぶ。
それが二度、三度と行われるとさすがの荒くれ者の僧兵も膝を着き手に持つ武器を手放し、更には根本中堂で震えて隠れていた坊官を捕まえて俺の前に引き摺ってきた。
俺の前に引き据えられている坊官に今回の責任を全て押し付けて、罪状を書いた掲示板とともに3尺高い磔台にその遺骸を晒した。
これにより比叡山延暦寺に対する焼き討ち事件は終息を迎えた。
当然比叡山延暦寺の一部僧兵が暴挙にでたことから比叡山延暦寺に対する資金援助額は減額され、代わりに俺と比叡山延暦寺との仲介の労を取った帝と二条晴良に対して支払われる仲介手数料は増額されて多額の金が贈られることになった。
ただ比叡山延暦寺焼き討ちという心労によってか、後奈良天皇は史実通り弘治3年11月に崩御されて正親町天皇へと
史実では当時の天皇家は困窮しており即位の礼が2年もの間行われなかったのだが、今回の多額の仲介手数料によって無事に即位の礼が直ちに行われて天皇家の面目が保たれたのである。
坂本の町に今後またしても比叡山延暦寺が僧兵を養う等の敵対行動をとる場合、それに対抗する為の織田家の城が築城されることになった。・・・それに比叡山延暦寺は北陸道や東海道の交通の要所にもなる場所なのでぜひとも押さえておきたいのだ。
問題はこの城の城主だ。
史実では明智光秀が坂本城城主で、この城を取り上げたりして信長と光秀の仲が悪くなり天正10年(1582年)に起きた本能寺の変へと発展したのだ。
明智光秀はいけない!それでいまだ食客として俺の手元にいた15歳になった松平元康(後の徳川家康)を元服させてこの坂本城の城主としたのだ。
家康ならば将来的に江戸城を与えれば良いか。
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