第92話 比叡山延暦寺焼き討ちへ

 俺の弟秀孝を殺した憎き比叡山延暦寺と堅田の湖賊に対して鉄鎚を食らわす事にした。

 ところで史実でも元亀2年(1571年)に織田信長が起こした比叡山延暦寺の焼き討ち事件がありました。


 この際織田信長に対して攻撃中止の和睦金として延暦寺から黄金300、堅田から200を贈ろうとしたが、信長はこの受け取りを拒み焼き討ちが敢行されたのです。・・・このことからも堅田の湖賊には比叡山延暦寺の信奉者が多かったことがわかると思うのです。


 比叡山延暦寺の焼き討ちの事の起こりは織田信長が比叡山延暦寺の寺領(荘園)を横領したことから始まり、将軍足利義昭の画策した


『織田信長包囲網』


によりそれらに賛同し信長に敵対した浅井家・朝倉家等を擁護したり匿ったりしたからです。


 ところで、織田信長が行った寺領横領と言えば聞こえは悪いのですが、問題は僧兵を何万人規模で養えるようなこの広大な寺領がある事が原因なのです。

 その僧兵を持つことにより寺社仏閣が独立し守護大名や織田信長のような戦国大名に敵対し、一揆などの足元を揺るがすような事件を誘導して守護大名や戦国大名を苦しめていたのです。

 比叡山延暦寺の僧兵については白河法皇(在位1073年~1087年)も


「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵の事)、是ぞわが心にかなわぬもの。」


と言って嘆いているのでその歴史は古く権力者にとっては目の上のたん瘤と言っても過言ではない状態が続いていたのです。

 また比叡山延暦寺は京都と東海道・北陸道への交通の要所であり戦略上においても攻略すべき地点であったのです。

 それ故に織田信長は比叡山延暦寺が有する広大な寺社領(荘園)を取り上げて、その何万人もの僧兵を養えないようにするのは当然の事だったのです。


 比叡山延暦寺に目を向けると僧兵は学僧と違い軍事中心なので、淫乱、魚鳥を食し、金銀賂に耽る等当たり前で比叡山延暦寺が当時


『僧が修学を怠り、一山相果てるような有様であった。』


と言う状況にあった事が災いした。・・・う~ん織田信長が以前にも書いた安土宗論(天正7年(1579年⦆で是は是非は非と言う立場を取って死罪まで行っているのだ。彼の行動からすれば比叡山延暦寺がこのような状態になっている事を放置することは無かったと思われる。


 それでは寺荘(荘園)を取り上げてしまえば比叡山延暦寺の僧兵を養うことは出来なくなるが、残った学僧などの生活できなくなるのでは?・・この解答については徳川家康が考え実行した檀家制度である。

 檀家制度によって寺は収入の安定と大名等は寺が人別帳を作る事によって住んでいる人員の掌握も出来る事になったのだ。


 話を史実に戻して元亀2年(1571年)に起きた比叡山延暦寺の焼き討ちの際の天台座主については第166世覚恕座主でこの方は後奈良天皇の皇子であったが、弘治3年(1557年)当時では伏見宮貞敦親王の御子で堯尊法親王だったと思われる。

 この話での比叡山延暦寺焼き討ちは弘治3年8月に行われたが、この時は後奈良天皇の御代であったが、11月には崩御されて正親町天皇へと践祚せんそされたのだ。

 話のついでに当時の天皇家は困窮しており即位の礼が2年もの間行われなかったという。


 その古刹比叡山延暦寺は平安時代に最澄により開かれ、現在の滋賀県大津市坂本本町にある標高848メートルの比叡山全域を境内とする薬師如来を本尊とする天台宗総本山であり、ここは琵琶湖の入り口である瀬田の唐橋と現在の琵琶湖大橋付近にあった堅田の湖賊の本拠地との中間地点付近にある。


 先ずは弟秀孝を切り殺して織田家に謀反を実行した堅田の湖賊の本拠地を叩くことにした。

 それに比叡山延暦寺の僧兵は淀川の戦いによって数を減らしており、武力においては堅田の湖賊の方が早々に降伏して兵を温存しており脅威であったからだ。

 それに弟秀孝を乗せた現代風のヨットの帆を張った関船には鋳鉄大砲が装備されておりこれを堅田の湖賊側に拿捕されると戦力が向上して今後苦しい戦いになってしまう。


 その弟秀孝を乗せて行った関船であるが、弟秀孝が比叡山延暦寺へと赴いている間に堅田の湖賊の本拠地の桟橋に横付けして食糧と水の供給を受けていた。

 その作業をするうちに、なにやら堅田の町中が騒がしくなってきた。

 織田家の有する堅田の造船所では剣を交える音まで聞こえ火の手があがった。

 なんと!その闘争が飛び火したように食料と水を運んでいた湖賊の面々が刀を抜いて関船の乗員に切りかかってきた。

 多勢に無勢これでは関船を拿捕されると思った船長は弾薬庫に飛び込み・・・壮絶な笑みを浮かべてマッチを擦った。


『ズドーン』


と言う轟音とともに関船は乗り込んだ湖賊や乗員もろとも木端微塵に砕け散ったのだった。

 また舞い上がった火の粉は堅田の町に飛び火して関船の船長や弟秀孝と湖賊の統領青鮫の怨念のように燃え広がって行った。

 関船の弾薬庫の爆発による轟音と立ち上る煙は、はるか離れた琵琶湖へと向かう旗艦海進丸にも届いたのだった。

 この轟音と立ち上る煙により


『関船自沈』


を悟った俺は目的地を堅田から比叡山延暦寺へと変えた。

 今回船団には織田家の化け物船と呼ばれる関船2隻が追従しているが、今回の戦いは砲撃戦で終わらせるつもりなので、瀬田の唐橋付近で沈没した船の護衛任務している5隻の現代風のヨットの帆を張った関船と合流させ、現代風のヨットの帆を張った関船5隻のうちの2隻を船団に組み込んだ。


 比叡山延暦寺は今回の謀反を企てて延暦寺の厚い信奉者が多数いる堅田の湖賊をそそのかした張本人である。

 その比叡山への物資の搬入起点として坂本と言う港がある。・・・う~ん後年本能寺の変と言う謀反を起こした明智光秀が坂本城と言う比叡山延暦寺の焼き討ち後に延暦寺の監視目的に建てた城がある。この城をルイス・フロイスは安土城につぐ天下第二の城と言わしめるほどの城だったそうです。

 その坂本港に向かって現代風のヨットの帆を張った関船4隻が先行する。


 強襲を受けることになった坂本は慌てて例の長い竹竿に笠を刺した使者を小舟に乗せて我が方に派遣してきた。

 その小舟にはなますのように切られた織田秀孝と堅田の湖賊の統領青鮫の遺体が載せられていた。・・・『火に油』と言う事を知らないのか?

 美形の一族の中でも飛びぬけた美男子の織田秀孝が見るも無残な姿になって戻ってきたのだ。


 俺は二人の遺体を受け取ったものの使者から差し出された書状は一見したが


『黄金300枚で矛を収めてくれないか。』


等と言う元亀2年の比叡山延暦寺の焼き討ちの際と同様な内容であったことから使者の目の前で破り捨てて使者に


「俺とて鬼ではない1日の猶予をやる。

 坊官の首と比叡山延暦寺の寺領全てを差し出せ!

 その返答が無ければ坂本の町どころか延暦寺全体を砲撃して灰燼に帰してやる。」


と宣言して送り返した。

 1日の猶予の間に京の町に逃げ出す者や朝倉家や六角家を頼って逃げ出す者が何人もいたが、その中には当時の天台座主の姿もあった。

 逃げ出す者もいれば徹底抗戦を叫ぶ者もいる。

 それらの者は坂本の町や延暦寺の宿坊に立て籠もり弓を張り刀や槍の刃を研ぎ澄ませていた。

 2日目の早朝延暦寺からの返答は無い。

 まずは坂本の町に対する壮絶な艦砲射撃が開始された。


『ズドーン』『ズドーン』『ズドーン』


と織田家の各船から砲撃が開始され


『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』


坂本の町に対して情け容赦なく焼夷弾が落ちるのだった。

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