第91話 石山本願寺

 俺は琵琶湖で湖賊や周辺の戦国大名に示威行動をする必要が無くなった織田家の旗艦海進丸を母港の桑名新港へと回頭することにした。

 旗艦海進丸に従うのは現代風のヨットの帆を張った関船5艘と織田の化け物船と恐れられた2艘の関船である。

 琵琶湖からの唯一の流出河川を瀬田川・宇治川・淀川と名称を変えながら下って大阪湾に入ろうとする辺りで現在の大阪城の所在地に石山本願寺がある。


 その石山本願寺の坊官下間真頼に成り代わったのが俺憎しで凝り固まった兄一郎である。

 彼は比叡山延暦寺の坊官と語らい僧兵約2万も集めて淀川の河川敷で陣を張り、この戦国時代では日本において使われた事のない兵器・投石機を用いて我が旗艦海進丸に対して篝火かがりびを投げつけようとしたのだ。


 いち早くそれを認めた我が方は現代風のヨットの帆を張った関船と旗艦海進丸の舷側に備えた鋳鉄大砲でこれを撃破した。

 淀川の河川敷に集まった僧兵特有の法衣ほうえ袈裟頭巾けさずきんではこの戦いを挑んだのは誰かもろ解りである。


 戦いを挑んできた石山本願寺は淀川の左岸約4キロの地点にあり、関船や海進丸の片側舷側に設置された鋳鉄大砲の有効射程距離は約5キロもあるので十分狙える距離である。

 この石山本願寺に艦砲射撃をくわえる事にしたのだ。

 それに暗くなってきたとはいえ黒い影のようになって見える石山本願寺のデカイ本堂の屋根は格好の標的である。

 関船の砲塔が回って狙いが定められ、海進丸の片側舷側に設置された鋳鉄大砲の砲門が開けれて砲身が押し出される。

 俺の


「放て!」


の号令によって


『ドーン』『ドーン』『ドーン』『ドーン』


と関船や海進丸の片側舷側に設置された鋳鉄大砲の砲口が次々と火を噴く


『シュルシュル』『シュルシュル』


と滑空音がすると次の瞬間


『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』


と目標の石山本願寺のデカイ本堂の屋根が吹き飛び・・火の手が上がった。

 赤々と燃える本堂に照らされて周辺の状況が良く見えるようになった。

 その後2度の艦砲射撃によって石山本願寺は更地となったのだ。


 その艦砲射撃に驚いたのは石山本願寺の坊官下間真頼と比叡山延暦寺の坊官である。

 二人とも


「2万もの僧兵を使って押し出したのだ。

 それに青銅砲には劣るものの投石機3台も淀川の河川敷に並べたのだ。

 これではいかに織田家の誇る大型の帆掛け船でもひとたまりもあるまい。」


とお互いが勝利を確信してニャリと笑いながら般若湯(酒)を酌み交わしていたのだ。

 その二人に悪夢が訪れた。

 あろうことか轟音と共に石山本願寺の象徴であるデカイ本堂が砕け散り、火の手があがった。

 轟音は幾たびも石山本願寺を襲う。

 二人は取る物も取りあえず外へと飛び出した。


 ここで二人の明暗を分けたのは兄一郎が成り代わった下間真頼は砲撃で倒れ伏して下女の着物を剥ぎ取り頭にかぶり、比叡山延暦寺の坊官はそのまま逃げだしたことだ。


 石山本願寺を遠巻きに監視していた織田家の忍軍は逃げ出してくる僧侶を見張っていた。

 その中でも豪奢な袈裟を掛けて慌てふためいて石山本願寺から逃げ出してきた僧侶を見つけた。

 この僧侶が比叡山延暦寺の坊官である。

 織田家の忍軍はこの坊官が石山本願寺の坊官・下間真頼と誤認して彼を追った。


 当の下間真頼は当時の宗主証如にも下女の着物を被せて比叡山延暦寺の坊官が逃げ出した後から外の様子をうかがいながら、織田家の間者の目を避けながら京の町にある本願寺に逃げ込んだが、信長の影におびえて一向宗の国である加賀の国へと宗主と共に逃げのびたのである。


 哀れなのは織田家の忍軍に追われた比叡山延暦寺の坊官である。

 追い詰める織田家の忍軍にとうとう捕まり、縄目で高後手姿で俺の前に引き据えられた。

 追い詰めた織田家の忍軍の長はましらの半助、霧隠の半兵衛、伊賀の才蔵という以前から目をかけていた面々であり、これらの功績により彼等を侍大将にしたのだ。・・・3人については第58話参照。


 古刹比叡山延暦寺は琵琶湖の入り口である瀬田の唐橋と現在の琵琶湖大橋付近にあった堅田の湖賊の本拠地との中間地点付近にある。

 比叡山延暦寺の信仰者は地理的要因もあり堅田や沖島の湖賊にも多くいた。

 今回の湖賊退治では結果的に堅田や沖島の湖賊を配下にした事から信仰者の多い比叡山延暦寺に対しては織田家は敵対行動をとらなかったのだが・・・その比叡山延暦寺の坊官が俺の前に引き据えられているのだ。


 比叡山延暦寺にも僧兵はいる。・・・現に俺に牙を剝いたのだ。

 その僧兵を養うのが比叡山延暦寺が有する広大な寺社領(荘園)である。

 史実でも比叡山延暦寺の寺領を巡って織田信長と激しく対立してあの有名な元亀2年(1571年)に比叡山延暦寺の焼き討ちへと発展していった。

 この時も織田信長は広大な寺領を背景に多数の僧兵を養う事が出来、また僧兵の宿舎に使用できる多数の坊がある比叡山延暦寺に脅威を覚えて寺領を取り上げ、宿舎として使用できる坊を焼き払ったのだ。


 俺は比叡山延暦寺に対して


「坊官の身柄を返すが、そのかわりに寺領の召し上げと宿坊の整理。」


を言い渡した。

 比叡山延暦寺としては今回の戦いで万を超える僧兵が亡くなり・・・元亀2年の比叡山焼き討ちでは死者が2~3千人(諸説あり)で・・・戦う術を失っており俺の申し出に対して実力が落ちた今比叡山延暦寺は苦渋の決断を選ぶしかなかったのだ。


 坊官と共に比叡山延暦寺に整理の監督に赴いたのが、信長の弟織田秀孝で母親はあの土田御前で同腹の兄妹の一人だ。

 織田家は美形の一族だが秀孝はその中でも飛びぬけて美形であった・・と信長公記にも記載されている。

 その秀孝は天文10年(1541年)生まれで、史実では弘治元年(1555年)叔父信次の家来の手によって無礼討ちに遭って死去するという悲運の人だ。

 叔父信次を紀伊半島の鉱山などを手に入れたことからその監督者にしているので、叔父信次と秀孝とは接点も無く本小説の弘治3年(1557年)には存命である。

 その秀孝が


「私に比叡山延暦寺の寺領管理の手伝いをさせていただきたい。」


と願い出たことから現代風のヨットの帆を張った関船に坊官を乗せて延暦寺へと向かわせたのだ。


 関船の白い帆がやけに白々として目に焼き付き不安を覚えた。

 その不安が的中した。

 俺は堅田の湖賊の統領青鮫のもとに完全に伏したと思い比叡山延暦寺の力を甘く見ていた。


 弟秀孝は堅田に船を横付けして湖賊の統領青鮫を道案内に比叡山延暦寺へと向かった。

 延暦寺が見えるあたりで、湖賊の一人が湖賊の統領青鮫に


「第六天の魔王!織田信長にくみする馬鹿者が!」


と言って後ろからいきなり切りかかった。

 まさか今まで仲間だと思い信頼していた配下に後ろから切りかかられたのだ。

 対応することも出来ずに血飛沫をあげながら倒れ伏した。

 それを合図にして堅田の湖賊の面々が刀を抜きどこに潜んでいたのか多数の僧兵どもも秀孝を守る護衛ごと囲み、多勢に無勢!秀孝を守る護衛もろとも切り伏せられてしまった。

 哀れ秀孝史実よりも2年程しか長生きできず、享年16歳であった。


『秀孝、堅田の湖賊の裏切りにより討死!』


との報は直ちに俺の元にもたらせられた。

 俺は旗艦海進丸の病室で眠る堅田の香魚を切ってすてようと思ったが、第2報で


『湖賊の統領青鮫も同様に討死!』


との報で思いとどまってよかったと思った。

 史実では織田信長は秀孝が無礼討ちで亡くなったと聞くやいなや現場へ単騎で向かい


「こんなところを単騎で向かうなど馬鹿者だ。」


と言って嘆いたと言う。・・・う~ん自らの行動と矛盾している所が面白い。・・・面白がってばかりではいられない。

 直ちに


「回頭!琵琶湖に戻り、堅田の湖賊、比叡山延暦寺を灰燼かいじんに帰してやる!」


と船を再び琵琶湖へと向かわせたのだった。

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