第82話 皇女京都脱出計画

 俺は伊勢国内の一角桑名を手に入れるために今で言う総合商社の走りである『尾張屋』を設立して桑名で土地を買い上げて桑名新港を開港した。

 その同時期に、美濃屋の女主人のおしのさんと知り合いその伝手もあって高い文化を誇る京都に前世では失われてしまった古書等の文化遺産の散逸を防ぐ為という名目で『京屋』と言う古書取り扱い問屋を開設した。

 京屋の名を売るために有力公家等に鉛筆や色鉛筆、高級美濃和紙を贈った事も幸いして『京屋』開設もスムーズに行われた。

 その直後に『京屋』に引き続き俺の足場として尾張屋京都支店等も出店していった。


 京都さえ抑えれば、俺の天下統一も楽になるとの思いもあったのだ。

 それにはまず教養人の公家と仲良くなる事だ、しかし戦国時代の現状は帝の住む御所を見ればわかるが、御所とは名ばかりのあばら家に住んでいる。

 教養文化は金になることを教える、それは公家と言う貧乏貴族の人心掌握にもなるはずだ。


 ポルトガルやイングランドのガレオン船を手に入れて武器開発に精を出している天気の良いある日、その『京屋』の若主人として店頭に俺は立っていた。

 その時は武芸者の勘と言うか何かが働いて京都の町まで来てしまっていた。

 見事な牛車が店の前に止められ、そこから人品骨格が極めて良い3歳児程の幼女が飛び降りると私に向かって駆けよってきた。

 幼女からは何か侵し難い気(オーラ)が溢れていた。

 俺は幼女に


「当店においで下さりありがとうございます。店先では失礼ですので店内へどうぞ。」


と京屋の応接室に招き入れて


「何かお求めですか、御令嬢。」


と尋ねたところ


「買え。」


と言葉少なに貴重本を差し出した。

 その間に柳生早苗が京屋の女中頭として、本人ばかりでなくお付きの者にまで紅茶やこの時代の日本には無いケーキを


「西洋菓子でもどうぞお召し上がりください。」


と言って配った。・・・このケーキはキャサリンやグランベルそれに見た目とは違い西洋の料理人であるボーズンのジョンとの努力の結晶だ。

 幼女から


「ケーキ?」


と言う小さなつぶやきが聞こえた。・・・う~ん早苗は『西洋菓子とは言ったが聞き間違い!?』か。

 俺は受け取った貴重本をパラパラとめくりながら幼女に


「貴重本なので、買い取りよりも借り上げて2冊写しを作ります。

 写しの1冊は御令嬢にも差し上げます。

 借り上げ期間は3ヶ月で、月10貫(1貫が12万円ほどなので約120万円)で、写しがいらなければその写しを100貫(約1200万円)で買い取らせていただきます。」


と言って、借用書と今後の契約書をお互いに取り交わした。

 この時の借用書や契約書に幼女が署名して花押を描いた事から、貧乏公家娘ではなく皇女松様と知れた。

 皇女松様何とその時はいまだ3歳児なのに達筆の契約書を取り交わした。・・・う~ん前世なら未成年者でこんな契約アウトだが・・・?・・・そっちかい!


 時折京都に行くたびに、皇女松様が折よく京屋に立ち寄りその度にケーキをせがまれていた。

 その皇女松様が7歳のおりに織田家へ降家の話が出た。

 それも俺が京の町にも近い近江の国の支配者浅井家を攻め滅ぼし京都に対する脅威が増した事から織田家への懐柔方策としてである。

 皇女松様は俺ではなく俺の正妻の帰蝶さんに遠慮してか帰蝶さんとの間で産まれた1歳年下の嫡男信忠の正妻を希望した。

 この話をまとめるために正月のお茶会を皇女松様とすると言う名目で帰蝶さんが御所に赴いた。

 帰蝶さんと皇女松様が御所内でお茶会と称する面談中に、将軍足利義輝が乱入し彼の放った凶刃により帰蝶さんが帰らぬ人となり、皇女松様もその面を切られてしまった。


 さすがに乱入して凶刃を振るった将軍足利義輝に対してその所業に怒った天皇が


「狂ったか義輝!この痴れ者め将軍職を辞めさせる!」


と言って将軍職を辞任させられ、史実より少し早いが南都興福寺で一条院覚慶を名乗っていた弟の足利義昭が還俗し将軍職に就いた。

 酒に酔って暴れ回ったのもあるが、武門の棟梁で剣豪将軍として有名な足利義輝があろうことか御所内で小者(本当は俺にだが)に腕を切られたという失態の方が大きかったようだ。

 片腕を無くした足利義輝は傷の治療後、剣の師匠の塚原卜伝のいる鹿島神社に預けられて生涯をそこで過ごす事になる。


 将軍足利義輝によって切られて亡くなった帰蝶さんの遺骸は美濃の国の鷺山の頂に建てられた延命寺に運ばれて、父親の斎藤道三と弟孫四郎と共に葬られた。

 この寺において、帰蝶さんの義兄、圓角上人こと斎藤義龍が弔っている。


 この御所狂乱事件で皇女松様の嫡男信忠への降家の話が無くなった。

 面を切られた皇女松様は右目を失明して義眼を入れており、醜くなったとして天皇家から嫡男信忠との降家話を断ってきたのだ。

 降家の話が無くなれば哀れ皇女松様は出家して尼寺に行かされることになる。


 これを救ったのが、皇女松様の実母の実家、五摂家の一つ二条家である。

 皇女松様は色々な形で織田家からは支援を受けているので、皇女の実家の二条家も潤っている。

 二条家の当時の当主は関白を務める二条晴良であった。・・・史実では数年前に関白を辞任しているが、俺が信長に変わった事から色々なところでひずみが出たのか歴史が変わって晴良は関白をそのまま続けている。

 何としても織田家との関係を繋ぎ止めておきたかったことから、皇女松様より年下の嫡男信忠ではなく、今回の事で正室を亡くしている俺にと言ってきたのである。


 俺は亡くなった正室帰蝶の喪が明けてから考えると回答した・・・う~ん一応答えの保留だな・・・喪明け1周忌の法要後との回答である。

 ただ御所を血に染めた事件だったので、皇女松様への風当たりは強い。・・・被害者なのに!?

 これは先にも書いた織田家からの色々な支援で皇女松様の関係者だけが潤い、妬みに思っているのだろう。・・・それに兄一郎が坊官となった本願寺一派の蠢動や三好三人衆や松永久秀のように京都を武力で抑えている人物の公家衆の派閥が出来ているので、それらが五月蠅うるさいいのだ。


 それに新たな将軍職に就いた足利義昭は曲者で、史実でも織田信長包囲網を画策した人物だ。

 新たに将軍職になれたのは、俺が前の将軍足利義輝の左小手を切り飛ばした事だ。

 武門の棟梁たる兄の将軍が控えていた小者に切られたことで面目を失い辞職させられたのだ。・・・これが逆に足利義昭にとっては


『織田信長によってしてやられたのではないか。』


との思いが強く恐怖でしかなかった。


 皇女松様の無聊ぶりょうなぐさめる為だと、京屋の女中頭役の柳生早苗が鉛筆や色鉛筆、美濃和紙などを贈呈した。

 その皇女松様が絵を描いて俺によこした。

 以前俺の描いたレオナル・ド・ダヴィンチの


『ヘリコプターの絵の御返しだ。』


という事だが・・・それは飛行機の絵だった。・・・う~ん!?精密な零戦やステルス戦闘機、それにジャンボジェット機まで描いている。マハラジャのサーシャさんも旅客機を同様に描いて見せた。デジャヴュ!


 俺には解るが、この時代の人にとってはどんなに精密な飛行機の絵でも落書きにしか見えないのだ。・・・う~ん、う~んと俺は唸ってしまう。

 これによって色々な事から皇女松様が転生者では無いかと思っていたが、皇女松様は転生者であり得難い人材だ。

 その皇女松様を兄一郎が下間真頼しもつましんらいに成り代わって坊官となった本願寺の一派や三好三人衆、松永久秀が


「織田家と繋がりが出来ると不味い!皇女を亡き者にしよう。」


等と不穏な言動が漏れ聞こえてきた。

 皇女松様を保護する。・・・う~ん場所は?どこだ!どこが良い!?

 暗殺を避けれる場所。・・・う~んあった日本最大の湖、琵琶湖に浮かぶ島の一つ

『竹生島』

だ。

 この島は浅井家の主城小谷城を陥落し、廃城としたことから新たに旧浅井家の領地の抑えとして竹生島内において織田家の出城を築城している。


 皇女松様が京都から琵琶湖内の竹生島までの脱出ルートについてだ。

 琵琶湖の水面は標高約85メートルの高さで、琵琶湖への流入河川は多いが流出河川は大阪湾に向けて瀬田川・宇治川・淀川と名称を変えながら流れる大河が一本だけであり、この大河を利用する事にしたのだ。

 それに琵琶湖を手に入れたのは良いが、この琵琶湖には海賊ならぬ湖賊・・・かの有名な堅田の湖賊・・・が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている。

 それにその湖賊を朝倉家や六角家それに延暦寺等の寺社が支援している。


 堅田の湖賊のおかげで琵琶湖を利用した交易どころか皇女松様を迎え入れようとしている竹生島内の出城の築城に対する妨害工作も行われているのだ。

 築城の為の資材搬入の妨害どころか出城に対する付け火まで行われほとほと手を焼いているのだ。

 この湖賊退治と言う名目で船団を動かし、大阪湾から淀川に入り、京都の宇治川を通り瀬田川から琵琶湖に入る。

 京都で宇治川と名称が変わるそこで皇女松様と合流して琵琶湖に逃げ込むのだ。


 琵琶湖からの流出河川を大河と言ったが、瀬田川の名称の場所では硬い岩盤に阻まれて川幅は約180メートルはあるが水深が問題だ。

 ずんぐりとした如何にもガレオン船という形のヘンリー8世号では無理でも、船体の長さは幾分長くなったが全体的にスリムな織田家が建造した旗艦海進丸と関船ならば何とか通過できそうだ。

 旗艦海進丸と関船22艘の船団が湖賊退治に当てられた。・・・この関船のうち20艘は1本のマストが立てられ、船先には長く伸びた棒(バウスプリット)が取り付けられて、現代風のヨットのような帆が張られている。

 一枚の四角い帆に風を受けていた物が、三角形の帆が前後に2枚張られている現代風のヨットの形だ。・・・う~ん戦国時代の日本国内では異様な帆の形だ。


 弘治3年(1557年)8月、皇女松様京都脱出の手助けの為に、織田家の旗艦海進丸を中心にヨットのような帆を張った関船20艘それに織田の化け物船と恐れられた通常の関船2艘が新桑名港から出港したのだった。

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