第72話 当主浅井久政の独り言
私は浅井家の当主浅井久政である。
大永6年(1526年)生まれなので浅井・朝倉・六角家合同軍で隣国美濃の国に攻め込んだ弘治2年(1556年)では丁度30歳である。
14年前の天文11年(1542年)に父である
父の亮政が北近江半国の守護である京極家を傀儡化していたが、その京極家と対立したまま死去し、何と家督争いの相手の田屋明政は父と対立していた京極家に援助を求めたことから、私は父と敵対していた六角家へ助けを求めて臣従したのだ。
ただ天文12年(1543年)に一艘の船が種子島に流れ着いた事をきっかけに鉄砲が伝来した。
なんとその翌年の天文13年には浅井家のほど近く、近江の国の国友村に当時の将軍足利義晴の命により管領の細川晴元がその地に住む鍛冶と共に鉄砲を造り上げて将軍に献上しているのだ。
これが名にし負う国友鉄砲鍛冶の始まりだった。
浅井家の主城である小谷城から南に直線距離にして約5キロ程のところに国友村が存在する。
当時とすれば超近代的な兵器工場が目の前に出来上がったのだ。
将軍足利義晴の肝いりで造られた国友鉄砲鍛冶の村ではあるが、その将軍足利義晴は天文15年に前将軍である
そんなゴタゴタがあった隙に国友村を私の物にするのは当然の事である。
史実では元亀元年(1570年)に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で起きた
『姉川の戦い』
で浅井・朝倉連合軍が敗れて国友村が織田家の手に落ちたのだ。
この姉川の戦いのはるか前、弘治2年(1556年)に将軍足利義輝からの使いが来て手渡されたのが織田家に対する討伐令である。
江戸幕府が瓦解したのが徳川家に与えられていた征夷大将軍の地位を天皇家が仁和寺宮彰仁親王に与え、その地位を示す錦の御旗と節刀を与えたことだ。
その錦の御旗よりも力が弱いが弘治2年に将軍足利義輝の発した討伐令は重い。
その討伐令と国友鍛冶から出来上がった百数十丁の鉄砲が勇気を与えて私の主導のもとに浅井・朝倉・六角家の合同軍が造り上げられた。
浅井家の隣国美濃の国では、蝮と恐れられた斎藤道三が廃嫡した斎藤義龍に謀反を起こされ討ち取られた。
その斎藤義龍も織田信長に捕らえられて美濃の国は織田家の手に落ちたのだ。
その美濃の国の主城岐阜城の城主となったのが信長と斎藤道三の娘帰蝶との間に出来た嫡男奇妙丸(信忠)である。
嫡男を城に置くと同時に亡き斎藤道三の娘帰蝶もその城に入った。
いかに斎藤道三の血筋の者とは言え美濃の国はごたついていると思い討伐令を錦の御旗として浅井・朝倉・六角家合同軍が美濃の国に攻め込んだ。
美濃の国に入り岐阜城が見えてくるころに
『織田信長が鉄砲によって暗殺された!』
という報告が入った。
この報告を聞いて小躍りしたのは私だけではない、その報は瞬く間に浅井・朝倉・六角家合同軍に広がり進軍を速めた。
その報告で喜び勇んで進軍するとはるか遠くで
『ドーン』『ドーン』『ドーン』『ドーン』
と音がして次の瞬間には至る所で
『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』『ドカーン』
と爆発して兵馬がともに吹き飛んだ。
私の近くにもその爆発が起こり、腹に火箸を指されるような痛みがあり、気を失った。
信長が鉄砲によって暗殺されたと聞いた時は
「第六天の魔王である織田信長の命運も尽きた!」
と思ったが私の方の命運がどうやら尽きたようだ。
従軍していた時宗の金創医が馬糞を腹に塗りたくっている。
この時代の医療は例えば弓矢の鏃の返しで筋肉や神経そして血管が切れるのはお構いなくくぎ抜きのようなもので鏃を引っこ抜くのだ。
その程度の医療技術と意識なのだから私も何処まで持つか分からない。
どうやら天に召される時が来たようだ。
「息子長政よ!信長には盾突くな!」
そう思っていたが長政も死出の旅に出たようだ。
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