第68話 弘治2年浅井・朝倉・六角家の状況
将軍足利義輝の発した織田家に対する討伐令に踊らされた今川家と斎藤家の両家を近未来的な大砲を有効に使用して陥落させた。
この事実は
また兄一郎が成り代わった石山本願寺の坊官下間真頼の手によってさらに全国津々浦々の庶民に喧伝された。・・・う~んどちらかと言うと織田家に対する討伐令を喧伝させたかったのだが、その話に両家を倒したと言う話に
問題は織田家が今川、斎藤の両家に戦いに勝って大きく日本地図が塗り替わったのだ。
今川家については敗れたとは言っても織田家の属国として生き残り、問題は斎藤家が破れて今まで織田家とは国境を接していなかった国が騒ぎ始めたのだ。
その中でも織田家が斎藤家を打ち破った事に一番驚愕したのは京都にもほど近い国である近江国・・・琵琶湖周辺で現在の滋賀県周辺・・・である。
近江の国は以前から近江の守護職の地位を京極家や六角家そして浅井家が争っていた。・・・その中でも守護職京極家の家臣で近江の国の国人である浅井家である。
当時の浅井家の状況は、将軍足利義輝の織田家討伐令が出された翌年、弘治2年(1556年)での浅井家の当主は浅井久政で、嫡男で史実では信長の妹の市を妻とする浅井長政はこの年では
その浅井久政の父浅井亮政の時代には守護職であった京極家を追い落としたが、その権力闘争で力を使い果たし、その間隙を縫って六角家が守護職に返り咲いた。
浅井家もこのままでは六角家に飲み込まれてしまうので、対抗処置として越前の国の朝倉家と同盟を結んだ。
浅井が立てば朝倉が立ち、朝倉が立てば浅井が立つ両家の関係は将軍足利義輝の織田家の討伐令によってもいかんなく発揮された。
その討伐令も浅井家が立つ切っ掛けでしかなかった。
浅井家としては美濃の国を制圧し、金の力で伊賀の国や柳生の里を同盟と言うよりも属国化して経済力や軍事力でひたひたと攻め込寄せてくる隣国となった織田家に脅威を感じていた。
脅威を感じていたのは六角家も同様である。
将軍足利義輝の討伐令は反目しあう浅井家と六角家との手を結ばさせ、織田家討伐の間の不戦と兵士の増援も約束された。・・・敵の敵は味方か!?
それに六角家としては北畠具教に嫁にやった六角定頼の娘が織田家の嫡男奇妙丸の乳母、産んだ孫が奇妙丸の乳兄弟等と言うふざけた状態になっている。・・・弘治2年では六角定頼はもうこの世には亡く、兄妹の六角義賢が守護職を次いでいるのでこの妹と甥を奪い返してやると意気込むのもやんぬる哉である。
同盟のなった浅井・朝倉・六角家三者の話会いは浅井家主導で行われたが結局は実りの秋、稲刈りのシーズンで侵略先の織田家の実った稲穂を狙って行われることになった。
同盟がなった三家が攻め込む先は俺(織田家)が攻め落とした美濃国である。
織田家へ侵攻するために浅井家は領民(農民)の召集に余念がない。
その織田家に侵攻を誓った浅井家の居城は小谷城である。
小谷城は標高495メートルの小谷山に建設された山城で、本丸である小谷城は中腹にあり、小谷山の山頂には大嶽城と言う支城が建っていた。・・・う~ん実際は大嶽城が本丸だったという説もある。
本丸や大嶽城の他には、出丸や月所丸と言われる出城が散在する堅城であった。
反目しあう六角家が味方に付いたのだ。
後顧の憂いなく、その堅城を捨ててでも信長の嫡男奇妙丸が城主を務める美濃の国の岐阜城(旧稲葉山城)討伐に向かうことが出来る。
浅井家が召集できた兵は7千名でそのほとんどが農民であり簡素な鎧(腹当てと呼ばれるもので腹部分のみを保護している)と浅井家の三つ盛亀甲の家紋が入った陣笠(ほとんどの兵士は鋳鉄製ではなく、竹製で和紙を貼り漆で固めたもの等)を被っている。
浅井家に向かって朝倉家さらには六角家から増援の為に派遣された兵が合流しその兵力は3万5千名にも及んだ。
岐阜城に向かう浅井・朝倉・六角家の合同軍の先鋒はこの戦いの言い出しっぺである浅井家7千名である。
これだけの大軍が動いたのだ、当然織田家が放った忍軍や浅井家等に潜んでいる草から連絡が入る。
織田家のモールス信号(織田式信号・日中は手旗信号、夜間は灯台などの光信号)によって合同軍の陣容や進撃ルートが逐次送られてくる。
伊賀の国や甲賀の里に建てられた忍術学校で織田式信号等を学んだ卒業生が良く働いてくれるようだ。
俺は
『浅井・朝倉・六角家が岐阜(稲葉山)城に向かって進軍を開始した。』
と言う連絡を受けて織田家の日々戦闘訓練で鍛え上げられた常備軍を動かす。
織田家の常備軍は、織田家の経済力が産んだ賜物だ。
この常備軍は通常は名古屋城や港湾施設等の拠点の警戒に当たる部隊や、現在の警察と消防の職務を行う部隊として活動している。
特に戦国時代で
その織田家の常備軍に参集の命が下り、日々の戦闘訓練で鍛えられて立派な体格をした尾張の国内で名古屋城周辺の兵士が名古屋城に集められた。
そこには天文18年(1549年)に手に入れた鋳鉄の技術により出来上がった新型野砲50門も並べられている。
俺の指揮のもと名古屋城周辺の兵士と新型野砲50門が名古屋城から岐阜(稲葉山)城に向けて出発した。
新型野砲の指揮官は新たに雇い入れた
俺が進軍する進路上に点在する替え馬をする放牧場とそれに伴ってできた宿場町では、その近辺で勤務している常備軍が加わり救援に向かう先の岐阜城に着くまでにはその数は1万人に上る予定だ。
浅井家等の兵士が腹当ての様な簡素な腹当ての様な鎧と陣笠に対して、我が織田家の常備軍は通常は背中まで隠せる腹巻に鋳造技術が他国より抜きんでている事から第二次世界大戦でアメリカ軍が使用したような鋳鉄製のヘルメットである。
移動中は鎧も着けずヘルメットも被らない状態で進軍している。
それらの装備品は荷車に載せられて運ばれていく、これは我が織田家の情報収集と情報伝達の能力の高さ・・・織田忍軍の能力の高さゆえである。
また織田家の兵士は食生活の改善等により体格も良くなり、平均年齢も50歳を超え始めている。
この当時は以前にも書いたが栄養状態が悪く、平均年齢も全国平均と同様に35歳前後しかなかったものを織田家では肉食を認めている。
以前も書いたが天武4年(675年)4月に天武天皇の「肉食禁止の
それに前世の記憶にある焼き肉や焼き鳥店まで織田家支配下の城下町で営業しているので、そこには忌避感の無くなった常備軍やそれに連れられた家族や友人達が集まり中々の繁盛店になっている。・・・織田家の飲食関係の直轄店「三河屋」内部に立ち上げた飲食部の直営店なのだ。飲食業でもガッチリ設けている。・・・う~んどこぞのテレビ番組名みたい。
織田家支配下の国々の人々の栄養状態が良くなり少しづつではあるが健康で長生きになった。
これは国力の下支えにもなっているのだ。
石畳で舗装された名古屋城から岐阜城への道はほぼ直線道路で市街地を出ると正方形にきちんと区割りされた美しい田園風景が広がる。・・・実際の戦国時代で見る風景は田畑は土地の形状や樹木などで歪な形であり、田は種籾の直播で均一性にかけ美しくないのだ。
その道路の左右には街路樹が植えられ、所々に放牧場とそれに伴う宿場町も出来上がり人の出入りの多さ、織田家の経済力の強さを表している。
我が軍は兵士の数を増やしながら岐阜城へと進軍するのであった。
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