第66話 弔い合戦
俺の率いる軍は斎藤道三救出の為の戦から弔い合戦となった。
「軍の野砲部隊と輜重隊を守る!」
と言って騎馬で駆けつけたのが、緋色に輝く鉢金の付いた額当てを巻き付け、同色の鎧に火縄銃を抱えた帰蝶さんで、帰蝶さんの後方には同様のいでたちの帰蝶さん付きの女官達(くノ一衆)が100名程続いた。
帰蝶さんが加わった事から弔い合戦の軍は総数1100名にふくれ各所の馬の放牧場で乗り継ぎ一路、金華山(美濃国⦅現在の岐阜県⦆井口の山)山頂にある稲葉山城に向かった。
一方義龍は戦火の燻る鷺山城址において道三と孫四郎の葬儀を執り行っていた。
その葬儀の最中に我が織田軍は長良川を越えて稲葉山城に取り付いた。
攻め寄せる織田軍の状況を義龍はつかみ損ねていた。
道三と義龍との戦いの際に斎藤家で雇っていた忍者のほとんどを道三が解雇したこと。
また根来に加えて伊賀や甲賀の忍軍が織田家に仕えてしまい、義龍が解雇した忍者のほとんどが織田家に仕官を申し出てそれが許され、義龍側が雇っていた忍者の口を封じを行っていた。
それでも草(その地域に溶け込んで活動している忍者)として織田領内に住んでいた者もいる。
その草たちも織田軍の動きを見て
それでも生き残りはいるが馬と人では走る速度が違い、我が軍は替え馬まで使って急行している。
その草の一人がやっとの思いで稲葉山城に辿り着いたのは良いが
「御屋形様が葬儀の為に鷲羽山に行っていていない!」
と聞いて腰を落として項垂れた。
稲葉山城に草が入った頃には我が織田軍は稲葉山城を包囲していた。
その草より早く
「桔梗の紋織田木瓜の旗(織田軍)をなびかせた軍が攻め込んできた!」
と知らせたのは稲葉山城の付近に住む農民で、稲葉山城の留守居もその知らせを受けて織田軍が攻めてきたのがやっとわかったのだ。
義龍から稲葉山城の留守居を命じられた
天文24年(1555年)この年10月23日に弘治元年と年号が改まるが美濃の三人衆、安藤守就は文亀3年(1503年)生まれで52歳、稲葉良通は永正12年(1515年)生まれで40歳、氏家直元は永正9年(1512年)生まれの43歳であった。
長良川を渡って稲葉山城に押し寄せてくる織田木瓜の旗を掲げる部隊の陣容は総勢1100名で全ての兵が騎馬か馬が曳く荷車に乗り、その荷車には黒い棒を乗せた荷車10両と荷物を載せた荷車が5両であった。
これを見た3人の家老は
『織田勢は1100名程度、これでは鷺山城で葬儀を行っている義龍に知らせる程ではなく手柄を立てる好機(チャンス)である。
上手くいけば織田信長の首級を挙げることが出来ると!』
とほくそ笑み、各々が
「稲葉山城に取り付いた織田勢は1100名余り、こちらの手勢は2500名もいる。
数の上では有利で、我らの方が高い位置にいる。
孫子の兵法でも明らかに織田勢は死地にあると言える。
打って出ようではないか。」
美濃三人衆と呼ばれるだけあって孫子の兵法には
三人そろって意見がまとまり稲葉山城から駆け降りることにした。
ただ孫子の兵法も持っている武器が同じ程度ならと言う想定だ。
美濃三人衆の命ずるままに稲葉山城の門が開かれ最初に門から出た兵1000名は稲葉山城の城壁に沿って散会し鶴翼の陣を敷いた。
安藤守就達三人衆も標高320メートルの金華山の山頂に建つ稲葉山城に届く弓や火縄銃は無いと思っていたのだ。
安藤守就は稲葉良通と氏家直元を城門近くに呼び寄せて
「敵陣に近づくこと33間(約60メートル)までは安全だ。
我らも中軍に位置して押し出すぞ。よし信長の首はすぐそこぞ押し出せ!」
と城門から打って出ると、城壁に沿って散会していた兵士も
「ウオー」「ウオー」
と叫びながら雪崩を打つように斎藤軍は駆け下り始めた。
俺は砲術長のウイリアムズに美濃三人衆の旗指物が城門を出るのを待ち砲撃するように指示を出した。
その後が新式の織田式鉄砲を持った陸戦隊400名に
「美濃三人衆の旗指物をさした立派な武士は狙うな。」
と命じて兵士を散会させる。
銃弾が6発レンコン式弾倉に詰まった新式の織田式鉄砲(ライフル銃)も今回が初お目見えである。
陸戦隊の兵士達は織田式鉄砲を構えて敵兵が駆け降りてくるのを待つ、稲葉山城の中腹まで敵兵が駆け降りたところで、どうしても陸戦隊を指揮したいと願い出た緋色の鎧姿に身を固めた帰蝶さんが
「放て!」
と高い声で号令すると陸戦隊の狙い済ませた織田式鉄砲から
『パン』『パン』『パン』『パン』『パン』
と次々に発砲された。
駆け降りる斎藤家側はまさか駆け降り始め稲葉山城の中腹で織田側から発砲するとは思わなかった。
駆け降りる斎藤家側兵士も
「馬鹿め100間(182メートル)以上は離れた場所から鉄砲を撃っても当たるわけはない。」
と思っていたが発砲音がするたびに前を走り、横を走る同胞が打倒されていく。
それに通常の火縄銃ならば筒先から装薬と弾丸を入れて、カルカで押し付けてから撃たなければいけないのに、発砲した次の瞬間には別の獲物に狙いを付けて発砲するのだ。
驚天動地の出来事に斎藤家側の兵士は
「冗談じゃない!織田家の鉄砲は別物か?降伏だ!?」
しかし無理だこんな混戦では、武器を投げ出して降伏の態度を示しても撃たれるだけだ。
その状況に困惑したのは美濃三人衆も同じだが、直ぐに状況が不利と見て
「退却!城内に逃げ戻れ!」
と号令をする。
慌てふためいて立ち止まり稲葉山城に向かう斎藤家側の兵士を後ろから撃つほど非情に徹せれない帰蝶さんは
「撃ちかた止め。」
と呟くように号令をかけた。
その間俺は、牽引してきた10センチ野砲10門を手早く稲葉山城を包囲するように配備していたので、俺はその野砲軍に
「砲弾装填」
と号令を下すとその野砲に榴弾が装填される。俺が
「撃て!」
と号令するとそれぞれの野砲が指示された目標に向かって
『ドーン』『ドーン』『ドーン』
と続けさまに榴弾が撃ち込まれる。
この国で俺が最初に大砲を使ったのが、天文18年(1549年)11月で今から6年前だ。
それは今川義元の黒衣の宰相大原雪斎が
その際に使われた大砲はヘンリー8世号の鋳鉄製大砲で最大射程が2キロであり、使われた砲弾も爆発して人や物を破壊する榴弾のような物が存在せず、石の弾や金属の弾の圧倒的な質量で人を死傷させたものだった。
その砲撃で黒衣の宰相大原雪斎は負傷して、彼を捕虜とすることができた。
しかし派手さの無い砲撃のおかげで・・・俺の戦果は正当に評価してもらえなかった。
その
大砲の発射音の後に訪れる
『ズドーン』『ズドン』『ズガーン』
と爆発音が上がるたびに、榴弾の炸薬によって堅牢な城壁が吹き飛び、二の丸や三の丸が燃え上がり始めたのだ。
稲葉山城の守備に残った兵も地獄だったが、稲葉山城から打って出た兵士も地獄であった。
稲葉山城に逃げ込もうと城門を目指していると、その城門が消し飛びさらに次々と城を守る城壁や城自体が次々と打ち壊されていき炎を上げる瓦礫になっていくのを目にしたのだ。
稲葉山城に逃げ込もうとした兵はあまりの出来事に皆武器を手放し腰を落としてその惨状を虚ろな目をして眺める事しかできなかった。
その砲撃の合間に死に装束に身を包んだ武将が竹竿の先に笠を括り付けて我が本陣の背後鷺山城側から使者として訪れた。
その人物こそが斎藤義龍その人であった。
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