第65話 斎藤義龍

 俺が乗艦する織田家の旗艦海進丸とヘンリー8世号さらには欧州丸の3隻が斎藤義龍に攻められている斎藤道三を救うべく名古屋城近くの津島港に入港した。

 この時代の最大巨艦で隣国の梟雄今川義元を降伏させた3隻が入港してきたのだ。

 小山のような巨艦を見ようと名古屋の住民が集まってきた。

 彼等は将軍足利義輝が俺を撃ち滅ぼそうと発した討伐令を受けたことに不安だったのだ。・・・兄一郎・・・一向宗の坊官である下間真頼しもつましんらいに成り代わり一向宗のネットワークを利用して討伐令が発したことを織田領内はもちろんのこと全国津々浦々まで


『織田家に討伐令が発せられた。』


ことを知らせたのだ。

 その不安を払拭させたのがこの3隻の巨艦だ。

 この3隻の巨艦から銃を担いだ陸戦隊の兵士400名が降りて整列する。

 陸戦隊の兵士の肩には折しも晴天の太陽に銃身を黒光り光らせた織田式ライフル銃で、その弾倉はレンコン型・・・いまだに津田監物は俺が与えた蓮根を神棚に飾っている。・・・である。

 その後方に海進丸の舷側に配備されていた10センチ砲10門が移動用に造られた専門の荷車に載せられて馬で野砲として曳かれていく。


 この当時の馬は木曽馬に代表されるような小型種で、現在は馬事公園などで子供が乗るのによく目にするポニーほどの大きさである。

 この当時の日本人の平均身長が158cmほどで、現在の小学校6年生くらいなのでポニー程度の馬でも充分乗馬に耐えたのだ。


 織田家の旗艦海進丸積載の41センチ主砲のような驚異的な射程距離では無いが野砲として曳かれていく10センチ砲は、今までの青銅砲の約6倍以上の5キロは飛ばせる代物だ。

 名古屋城下でも兵士が集められ、新式銃隊や大砲部隊を含む総勢2万名で稲葉山城を目指して進軍を開始する。

 斎藤道三との会見後、名古屋城と稲葉山城までの道路が格段に良くなっている為に稲葉山城へ向かう我が軍の進軍速度は早い。


 史実どおり、斎藤道三は廃嫡したとはいえ義龍を標高約320メートルの金華山の頂上に立つ稲葉山城の城主として据えたままである。

 道三と義龍に代わって嫡男とした孫四郎はその稲葉山城と長良川を挟んだ対岸にある鷺山城を居城としていた。

 義龍に代わって嫡男とした孫四郎は今川家が動いた段階で義龍に暗殺されており、義龍と道三は長良川を挟んで厳しく対立している。

 孫四郎の暗殺は1556年(弘治2年)に起きた長良川の戦いの前年に義龍が姦計を持って暗殺したもので、丁度史実とも合致する。


 道三が居城とする鷺山城は鷺山と呼ばれる標高68メートルの山と言うより丘の上に建つ山城である。

 鷺山城と稲葉山城は長良川を挟んではいるが直線距離にしてわずか2キロあまりしかない。

 義龍は


「織田信長が今川義元に対抗すべく岡崎城に向かって動いた。」


を聞いて好機とみて道三の居城の鷺山城に兵士1万5千名で攻め寄せた。

 守る道三の配下は嫡男にした孫四郎が暗殺され、将軍足利義輝の討伐令の影響もあってか兵士も集まらず僅か二千五百名であった。・・・う~ん攻め寄せる義龍の動員した兵士の数も、鷺山城を守る道三の兵士の数も史実と同じである。

 討伐令にそそのかされたように今川義元の軍が岡崎城攻略に動き、これに呼応するように義龍が道三に対して反逆に動いた。


 俺は岡崎城の攻防は以前の安祥城の攻防と同様に以後の三河の国の支配権をめぐって重要な戦であった事から今川義元の軍の討伐を優先して先に動いていたのだ。

 岡崎城に攻め寄せた今川方を火計で打ち破り、その勢いに任せて浜松城どころか今川義元の居城今川館(駿府城)まで打ち破り今川義元と和睦・・・弟秀孝と今川義元の嫡男氏真の娘と婚姻させて次期今川家の統領にしたので織田家の支配下に置いたことになる。


 織田家の誇る41センチ砲等と言う化け物じみた兵器によって僅か1週間で今川家を支配下に置いたのである。

 しかしそのほんの1週間の間に手兵しゅへいが僅かであった斎藤道三が立てもる鷺山城は落城し道三の首が落とされてしまっていた。

 俺の率いる軍勢が稲葉山城に進軍すると同時に


「義父斎藤道三討死す。」


との報を受けた。

 その報を聞いて荒れ狂ったのは俺だけではない、実父を亡くした帰蝶も同様であった、帰蝶は


「我が一軍を率いて鷺山城に救援に行けば。」


と言って悔やんでいた。

 鷺山城の戦いは数に勝る義龍の軍が城に籠る道三の軍を圧倒した。

 標高も僅か68メートルしかない鷺山では平城での戦いと同じで押し包まれるようにして道三軍は瓦解してもはやこれまでと悟った道三は


「我の命の引き換えに残った兵の助命を願う。」


と義龍に懇願した。

 それをりょうとした義龍は自らが道三の首を落とした。  

 道三と孫四郎の二人の首は戦火の燻る鷺山城の義龍の前に首実験の為に並べられた。

 義龍は父殺し、兄弟殺しを悔やんでいた。

 戦火で焼け落ちた鷺山城址に二人の首塚を造りとむらうことにしたのだ。

 義龍は


「信長に対する討伐令が将軍足利義輝から出され、それを受けて今川義元が三河の国の岡崎城に攻め込んだ。

 それに対応するために信長が動いた。

 如何に信長とはいえ短期間に今川を屈服することは出来ないだろう。

 軍装を解き、兵を解散せよ。」


と言って道三と孫四郎の弔いを敢行する事にした。


 斎藤道三救出の為の進軍が俺と帰蝶さんとによる斎藤道三の弔い合戦になった。

 俺にも誤算があったが義龍もこのほんの1週間程の間に信長が今川領全てを掌中に収め、斎藤家に向かって来るなどとは思ってもいなかったのだ。

 義龍は道三と孫四郎の葬儀を重臣と身内2百名程で行っていた。


 義龍も忍者を飼って織田家の動向を探っていたが、織田家の忍軍の方が優秀で義龍の忍者衆もほとんど捕らえられ殺されたのだ。

 俺の乗る船が名古屋城近くの津島港に入港したのを目にした義龍の忍者衆は状況を完全に把握しようとした。

 義龍の放った忍者衆は


『いくら馬が引くとはいえ重い野砲である、稲葉山城に着くのに時間がかかる。』


と思って油断して状況確認にのんびりと時間をかけすぎたのだ。

 俺は陸戦隊の400名を騎乗させ、馬が引く10両の野砲部隊と砲弾を積んだ5両の輜重隊を護衛させて、その数総勢1000名を疾駆せたたのだ。

 以前にも書いたが俺は馬や牛を領内各地で放牧している。

 その牧場で走り疲れた馬を次々と乗り換えていくのだ。

 替え馬があるので騎馬部隊が予想以上の速さで疾駆するのを見た義龍の放った忍軍は慌てて他人の目を気にする事を忘れて追尾しようとした。

 子供でもあるまいし大の大人が騎馬部隊を追いかけようとする姿は目立つ、これで残った義龍の忍軍は捕らえられ手に余った者は討ち取られた。

 それでも捕縛の手を逃れて稲葉山城に向かった者が数名いた。


 名古屋城から稲葉城まで直線距離にして約29キロ、馬の速足では時速約15キロ程なので稲葉山城までは約2時間でつけるが、途中で馬が使い物にならなくなる。

 その為の放牧場で、陸戦隊の400名だけならば中間地点で放牧場の馬を乗り継げば約2時間で稲葉山城に着くことが出来る。・・・のだが、この部隊には10両の野砲部隊と5両の輜重隊等の馬がいるのだ。

 それで津島港から数か所の牧場に立ち寄り馬を乗り換えたとはいえ稲葉山城には約3時間後に取り付くことが出来たのだ。


 その為義龍の放った忍軍の生き残り数名の者が稲葉山城に辿り着くのと俺達の軍が辿り着くのはほぼ同時であった。

 義龍は道三と孫四郎の葬儀の為いまだ鷺山の頂上にいた。

 その葬儀の最中に長良川を越えた我が織田軍が稲葉山城に取り付いたのを見たのだった。

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