第59話 天文20年から天文24年まで

 天文20年(1551年)正月から恒例になった義父斎藤道三との会見は聖徳寺から稲葉山城、鷺山城と会見場所を変えた。

 天文24年(1555年)正月で五度目の会見を終えた。

 この4年間に色々な事が起きた。

 その一つが天文22年(1553年)俺の側室の一人根来の楓が男児を出産して「織田信正」と名付けた。・・・史実では織田信正は庶子で嫡男信忠の兄で村井家という所に養子に行き何と享年94歳と長生きした人物である。

 この男の子が生まれたのを見てキャサリンやグランベルそれに桜子やおかよ、それどころか男性に触られるのも嫌がっていたマハラジャのサーシャまでもが争うようにして


「若様の子供が欲しい。」


と言って夜俺の寝室に忍び込んでくる。

 忍び込んでくるのは彼女達ばかりではない、忍びと言えば百地の空や根来の茜それに甲賀の夜霧、それらを打ち払える武芸者の柳生早苗が夜のとばりの中で争いながら入ってくるのだ。

 特に根来の茜は毒使いなので媚薬を盛られて・・・盛られなくても盛大に俺の一物を彼女の秘部を貫いていった。


 翌年以降は幼稚園を造らなければいけない程、俺の子供ができた。

 翌年、天文23年(1554年)にはキャサリンには次男信雄がグランベルには三男信孝が生まれ、次の年にはサーシャが四男秀勝、桜子が五男信房、おかよが六男信高、寝室に忍び込んできた百地の空は百地家の次期当主百地丹波が、根来の茜には七男信吉、甲賀の夜霧が八男信貞、柳生早苗には九男信好と次々と生まれた。


 俺は決して子作りばかりに励んでいたわけでは無い!・・・少し妖しいが?

 例えば天文23年には法の整備をしたのだ。

 法律の根本は何と言っても憲法だな、と言っても戦国の世の中だ日本国憲法のような三権分立や人権等と言う概念を前面に出すわけにもいかない。

 俺と敵対する今川家にも「今川仮名目録」という分国法があるのでそれをお手本にして「織田家憲法」を整備する事にした。

 今川仮名目録は守護大名から戦国大名への脱皮であり、室町幕府から脱却でもあるのだ。

 こればかりは親父殿や政秀さんを抜きにして勝手に整備することは出来ないので親父殿を主幹になって整備してもらう。


 おおもとの憲法が制定できれば行政・司法・民事の個別の法整備だな。

 憲法制定で親父殿や政秀さんが優秀な人材を集めてくれたので個別な法整備が進む進む。・・・ただ司法は「ハムラビ法典」の「目には目を歯には歯を」的な内容で過激に走ることがある。世界的に見ても例えば手術に失敗した医師の手を切る等の事が行われた。これでは医者のなり手が無くなるではないか!?

 罪と罰のバランスだな、適正な内容にしていかなければならない。


 この戦国時代には領地を守るために多数の城や館が存在する。

 その領主の住まう館が行政庁としての存在だったが、檀家制度を取り入れたことから寺がその一部を肩代わりをしている。

 檀家制度によって人別帳が出来上がり、その写しが俺の元に回ってくるのだ。

 それに寺の住職には住民が不平不満を言いやすいことから、俺や行政的に不備な点をその住職を通じて俺の耳に入ってくる。

 例えば悪徳領主(城主)が俺が取り決めた税収3公7民を破棄して不当に税収を引き上げ民から苦情が舞い込むことが多々あるのだ。


 本当に懲りない奴はいくらでもいる。

 信行の謀反の際に懲らしめの為に悪徳領主として権六(柴田勝家)の叔父に当たる権左の首を以前切り飛ばしたが、罪と罰とのバランスで、今後はあまりに酷ければ斬首もあるが、降格処分と今後の働き方を見ることにした。・・・う~ん悪徳領主になる人物が多すぎる。米など溜めて謀反を企てて籠城でもするつもりか?


 それもあって税の収入を米から織田硬貨へと変えていく事にした。・・・現実に明からの永楽通宝を輸入しないでも貨幣として流通できるほどしっかりした織田銅貨が出来上がっているのだ。

 織田硬貨は銅貨や金貨もありその交換比率は欧州の金銀比価に対応したものだ。

 まだ他の領地では金銀比価等を知らないようだ。

 武田信玄は甲州金と言う江戸時代まで続く貨幣制度を確立させている。・・・う~んこの制度が幕末の頃の世界の金銀比価との差で日本国を大損をさせたのだ。

 武田信玄といえば


『人は石垣、人は城、人は掘、情けは味方、仇は敵なり』


と言う名言を残し、人の重要性を説いている。

 武田信玄も説いた人材育成の為につくらせた寺子屋も上手く機能している。

 最近では寺子屋の隣に武道場も併設させてさらなる人材の発掘にも尽力している。


 猿(木下藤吉郎)の弟秀長、天文9年(1540年)生まれもこの寺子屋で教育を受けて将官学校へと進んでいる。


 天文18年(1549年)にガレオン船を手に入れた俺はこの戦国時代で世界中で見ても最先端の鋳鉄製の大砲を手に入れた。

 歴史上の織田信長は鉄砲・・・それも前装式の火縄銃・・・によって天下の統一一歩手前まで行った。・・・天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変さえなければ織田信長が天下統一を成し遂げただろうに!

 織田信長に成り代わった俺は明智光秀に注意を払いつつ鉄砲ではなく大砲で天下統一を成し遂げることにしたのだ。


 俺は大砲だけでなく鉄砲も後装式に変えて、そのうえライフリングを砲身や銃身に施して命中精度を上げ、装薬の改善などで有効射程距離まで延ばしたのだ。

 特に鋼材にライフリングを削り、砲身を穿うがつための動力として蒸気機関を完成させたがそれは天文19年(1550年)の正月から天文24年(1555年)正月までの5年間かけて完成させたものである。

 この蒸気機関を動力にして鋼材を削り出す旋盤がゴウゴウと轟音を上げてまわり出すと鋼材の金属をまき散らしながらとうとう念願の砲身を刳り貫きライフリングを掘ることが出来たのだ。


 ここでライフリングがなぜ必要かというと命中精度の問題なのだ。

 発射された弾丸に回転を加えて真直ぐ飛ばすのだ、と言う事はライフリングが無ければ狙った目標に向かって弾が真直ぐに飛ばないと言う事なのだ。

 ライフリングが無い為に例えば10メートルで2センチ程の誤差が生じるとすると1キロでは2メートルで、5キロを飛ばせるまでに開発された後装式10センチ大砲なら5キロ先の着弾地点では10メートルもの誤差が生じる事になるのだ。


 欧州の高い技術力を有するキャサリン達でも弾丸を真直ぐに飛ばす為のライフリング用の旋盤(出来上がった銃身内部に螺旋状らせんじょうに溝を掘る)技術まで持ち合わせていなかった。


 最初の解決策はキャサリン達が津田監物の率いる鉄砲鍛冶衆の鉄砲造りの見学に行ったことによる。

 キャサリン達は驚いた!欧州では鋳型で大量の銃器等を作るのに、刀鍛冶のように鍛錬して作り上げていくのだ。・・・技術が違う。


 何となくひらめくことがあったので、皆で額を集めて考えた。

 技術の合体だ!

 キャサリン達の鋳物の技術、最初からライフリングの溝を掘った鋳物と、鉄砲鍛冶師の鍛造する技術が合わさってライフリングされた鉄砲の銃身が出来上がった・・・上手くいかなかった。

 鍛造過程でライフリングの溝が潰れる等の不具合が出たのだ。・・・う~ん遂に蒸気機関を天文19年(1550年)に導入した。

 1760年代になって起きたイギリスの産業革命を200年以上も前に先立って実行したことになる。・・・う~んまたしても歴史を塗り替えたことになった。


『毒を食らわば皿まで』


と言うではないか、蒸気機関の導入を決めた俺は木工用の旋盤と合体させて旋盤が回ることを見せた。・・・う~んそれを見て一人サーシャがニヤニヤしながら


『ミサイルの設計図』


を俺の目の前でヒラヒラと振っている。

 俺はそれを見て首を横にブンブン振っている。

 蒸気機関と旋盤技術が陽の目を見たことから海進丸搭載の10センチ砲もライフリングの溝が掘られ、薬莢や装薬の火薬の技術も目に見えて進み、前装式から後装式のものへと進んだ。

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