第58話 天文21年甲賀の里と柳生の里

 天文19年(1550年)に攻めてきた北畠家を破り逆に滅ぼしてしまったことにより織田家の領地は広がった。

 北畠家の領地には東大寺のお水取りで有名な名張市に名張鉱山と言う刀や現在最高の武器である火縄銃を造る為の戦略物質とも言える鉄鉱石が採れる山があった。

 名張はお水取りの関係から東大寺の荘園であったが、黒田の悪党と呼ばれる伊賀忍者の上忍である百地家この当時の領主は百地三太夫が実効支配していた。・・・実際百地三太夫屋敷跡と言うのがあるのだ。

 以前にも書いたが、俺はその名張鉱山の領有と採掘権を求めて名張へとポルトガルのガレオン船から降ろしてあった15ポンド(約6,8キロ)の青銅砲を馬に曳かせて百地三太夫の屋敷に講和の為に向かった。


 百地三太夫は鉄砲以上の青銅砲の威力に驚き講和の席に着くやいなや俺に臣従を誓った。

 臣従の証として娘の百地の空が捕虜となり、直ぐに俺の側室の一人となった。

 伊賀忍者はその名の通り伊賀の国に在しており、伊賀の国は守護の伊賀仁木氏が治めていたが統治能力が弱くなったために多数の豪族が台頭してきた。

 その豪族の中には伊賀忍者の上忍である服部家や藤林家等もあった。

 俺の配下になった伊賀忍者の上忍の一人である百地三太夫の執り成し等により服部や藤林も俺の軍門に下り伊賀忍者の集団が傘下に入ったのだ。・・・これによって史実で起きた天正6年(1578年)から天正7年(1579年)と天正9年(1581年)の二度にわたる天正伊賀の乱を回避することが出来たのだ。

 領地が広がったのはよいが、浅井家や朝倉家、六角家それに甲賀の里や柳生の里とも領地を接するようになったのだ。

 当然これら全ての領主は、拡大する織田家に危機感を覚えていた。


 ただ俺としても情報戦に勝利するための忍者や個々人の武力を高める武芸者の必要性も痛感している。

 隣接する領地の中でも伊賀の里と同様に忍者の里として名高い甲賀の里、それに武芸の里として名高い柳生の里である。


 特に情報戦略を重視する俺とすれば伊賀の忍軍だけではなく甲賀の忍軍も手に入れたいものだ。

 俺は現在、根来忍者だけでなく伊賀忍者も掌中に納めている。

 それに加えて甲賀忍者をも俺の傘下に置くことは今後の情報戦をさらに有利にすることが出来る。

 情報戦が今後の戦を左右する事は今までの戦いでも証明されているうえに、孫子の兵法にも


『彼(敵)を知り己(味方)を知れば百戦してあやうからず』


とも言われているでは無いか。

 ただ甲賀は伊賀のお隣だが在所は現在の滋賀県であり六角家の支配下にある。

 前にも書いたが伊賀の国は仁木氏につきしが守護をしていたが、衰退してその統治能力は低くなり、その代わりに伊賀忍者の上忍である服部家や藤林家のような地侍の頭が台頭して地侍の頭による自治が行われているようになった。

 甲賀の里も同様で甲賀忍者が惣という自治体を形成して独立性も高くなっている。

 史実では信長の側室で信忠の乳母となった慈徳院が甲賀の出身者であり、信長の配下となる滝川一益がその親族とされ甲賀の惣の切り崩しを行っている。


 その滝川一益であるが、すでに俺の配下になっている。

 俺の配下になった九鬼嘉隆とも滝川一益は親交がありその伝手で俺の配下になっているのだ。

 史実とは違い信忠の乳母は慈徳院ではなく、亡くなった北畠具教きたばたけとものりの妻で六角家の娘の北の方が務めている。

 慈徳院についてはその滝川一益から紹介を受けている。

 この慈徳院史実では信忠に乳を吸われ、信長にも乳を吸われて側室となった人でもある。・・・う~ん甲賀の惣の切り崩しの為に史実通りに慈徳院の乳を吸ってしまった。戦国時代に生まれたのだハーレム一直線を実施している。

 その滝川一益と慈徳院を使って甲賀の惣の切り崩しを行っている。


 伊賀の国や甲賀の里、柳生の里等、彼等かれらの住む地域は紀伊山地と呼ばれる山岳地帯であり戦国時代では農耕に不向きな場所であり、彼等はさらに分立しているために貧しかった。・・・この過酷な環境が優秀な忍者集団を生んだと言っても過言ではない。


 織田家では俺の農地改良政策によって米が余剰米として余っている。

 甲賀の里や柳生の里では不作どころか凶作の年が続き飢えていた。

 不作で喘ぐ甲賀の里や柳生の里に対して余剰米を分け与えた。

 彼等は飢えからは解放されたが貧しさからは脱却できていない。

 貧しさから逃れようとする彼等には織田家が求める労働や財力は希望の星であり、彼等と同盟関係を結ぶのは容易な事であった。


 ただ伊賀の国や甲賀の里において貧しさによって生み出された忍術(忍者としての技術や体術)が織田家の富により貧しさから脱却したことによって失われてはならない。

 伊賀の地や甲賀の里において俺、尾張屋清兵衛こと織田信長が情報学校・・・第二次世界大戦の際の陸軍中野(スパイ)学校みたいなもの・・・を建てたのだ。

 この学校では最近盛んに使うようになったモールス信号(織田式信号)等も教えている。


 伊賀の国に隣接して柳生の里がある。

 柳生の里には柳生宗厳やぎゅうむねよし(石舟斎)という剣豪がこの時代にはいるのだ。

 俺としては仲良くしないわけにはいかないのだが


「柳生家の宗厳については名立たる剣豪だ俺は試合いや死合をしたい!」


等と思わず口走るものだから、周りからも止められているのが現状だ。

 甲賀の里は金の力である程度掌握されたことから、俺は柳生の里との先ずは友好的な関係を築く時期を待っていた。

 天文21年(1552年)斎藤道三との会見を終えて、その機会が訪れた。

 柳生宗巌は大永7年(1527年)生まれだから、天文21年(1552年)では25歳の若さであり嫡男の柳生巌勝やぎゅうとしかつはこの年に産まれたのだ。


 俺は柳生宗巌の嫡男巌勝の誕生祝の品を持たせて傅役の平手政秀を送った。

 実は俺も護衛の兵に身をやつしてこの地を訪れることにした。

 俺の服装は黒色の皮で出来た袴に陣羽織、背には4尺(約120センチ)の大太刀を背負い、手には剣豪大名北畠具教を打ち殺した木刀を持つ。

 傅役の平手政秀さんからは


「若!祝いの品を持って行くのだから、くれぐれも争いごとを起こさないようにして下され。」


と釘を刺されている。

 まず甲賀の里に入り国の状況の視察だ。

 尾張屋清兵衛こと織田信長が建てた甲賀の里の情報学校の視察だ。

 その視察した際、体術や武術で目を引く成績優秀者4名を雇い入れた。

 そのうちの紅一点、甲賀の夜霧と名乗る美貌の女生徒の手裏剣術には目を見張るものがあった。

 その他にはましらの半助、霧隠の半兵衛、伊賀の才蔵の3名だ。

 情報学校の体育館で護衛役の俺が彼等の実力を見るのは何の不都合も無い。・・・はずだった。


 思惑が外れたのが、甲賀の夜霧との戦いで一瞬の隙をつかれて着ている陣羽織の裾を手裏剣で縫い留められてしまった。


 丁度良い、俺の子供が欲しいと避妊を辞めてお腹が大きくなった尾張屋の女中頭を兼ねた根来の楓の代わりが出来た。

 それに俺のハーレム一直線!不細工より美人の方が良いだろう。

 それにそれに傅役の平手政秀さん


「若の子供が沢山できるのは織田家にとっても有り難い事だ。」


と言って喜んでいる。・・・政秀さんからすれば、帰蝶さんと結婚させてしまいさえすれば、後は世継ぎ問題だけなので子作りに励んで欲しいそうだ。

 ただ使者役のトップのはずの政秀さんが「若」「若」等と言うものだから俺の身分がばれてしまった。

 それで柳生の里でも柳生宗巌さんにもばれており、まあそのおかげで同盟を結ぶことが容易に出来たのだ。

 また柳生宗巌さんには武具職人に造らせた鮫皮の胴等の剣道具と竹刀を進呈した。

 剣道具を付けて竹刀を持って剣豪として名高い柳生宗巌さんと柳生の地で闘うことになった。


 庭は整地され砂地を箒ではいて箒目も美しい。

 そこに白い道着と黒の鮫皮の胴の防具を着けた俺と柳生宗巌が対峙する。

 相互の礼を行い。

 竹刀を構えるとじりじりとお互いに間合いを詰める。


 面金の間から涼やかだった柳生宗巌の目が


『カッ』


と光を帯て俺を射る。

 その光と共に柳生宗巌の持った竹刀が俺の面を襲う。

 その面を竹刀の弾性を使った面返し胴


『カシュ・バーン』


と音が重なり俺の竹刀が柳生宗巌の胴を打つ。

 負けた柳生宗巌の


「真剣ならば。」


と言われて、傅役の平手政秀さんが慌てて


「なりませんぞ!若!柳生宗巌殿!」


の一言で終わった。

 俺は柳生宗巌さんの鮫皮の防具の他に漆塗りや桜の木の皮の胴など20組の剣道具や100本以上の竹刀を贈呈した。

 面の付け方や竹刀による稽古の仕方をレクチャーして十日程柳生の里に滞在した。

 その十日間、毎日稽古終わりに柳生宗巌さんと対戦したが五勝五敗のイーブンであった。

 お互い負けると


「真剣ならば。」


と言った途端、傅役の平手政秀さんに怒られて止められた。

 思えば中々楽しい十日間であった。

 ただ柳生宗巌さんが真剣に竹刀で面を打てば脳震盪で倒れ、小手を打てば腕の骨が折れる事もある。・・・う~ん恐ろしい!

 俺は武道振興の為、今までは箒で掃いた地面の上でやっていたものを柳生の里に体育館・・・板張りの武道館、一種の武道学校・・・を建設することにしてこの地を後にした。


 この柳生の里では柳生宗巌さんの高弟四名を雇い入れた。

 柳生宗巌さんの義弟の柳生宗次郎とその妹の柳生早苗、早田重徳と桃山作次郎の四名だ。

 柳生早苗さんと甲賀の夜霧はお互いに朱塗りの胴を付けて稽古しているが、なかなか激しい稽古内容だ。 

 伊賀の国の大半の自治を行っている地侍や柳生の里が織田家の金の力で同盟関係を結んだことから近江の国の浅井家や六角家、更には浅井家と同盟を結んでいる朝倉家はさらに圧迫されることになっていったのである。


 織田信長に成り代わった俺は順風満帆なように見えるかもしれないが、俺に対して恨みを抱くものもいる。

 その一人が塚原卜伝の奥伝「一之太刀」を伝授され剣豪将軍として名高い、当時の室町幕府の第13代将軍の足利義輝(在職1546年~1565年)である。

 この人、俺があの世に送った北畠具教の兄弟弟子に当たるわけだ。

 兄弟弟子のうらみによるものか、天文24年(1555年)正月に定例の斎藤道三との会見後の3月に早くも俺に対する討伐令が将軍足利義輝から発せられたのである。

 それに討伐令を出すように煽ったのが一向宗の坊官(寺院の最高指導者)となった下間真頼しもつましんらいに成り代わった実兄一郎である。

 また一向宗のネットワークを通じて各戦国大名を反織田家へと駆り立て、更には将軍の発した討伐令が運ばれていったのだった。

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