第55話 義父斎藤道三との会見準備
天文19年(1550年)伊勢国国主の
桑名新港の戦いの最中に俺と帰蝶さんの間に男児が生まれて「奇妙丸」と名付けられた。・・・奇妙丸は後の嫡男織田信忠である。
史実では実母は定かでは無いが通説では久庵慶珠という方で生まれた信忠の顔が奇妙で奇妙丸と付けたとあるが・・・う~ん俺と帰蝶さんとの間に出来た子だけあって普通の赤子以上に可愛いぃ♡♡♡俺って本当は親バカ!?
その奇妙丸の乳母には北畠具教の妻北の方に、乳兄弟に具教の嫡男である
俺自身が信長の身代わりになり歴史自体が変わっている。
史実では信忠は弘治3年(1557年)生まれであるので、ずいぶん早くこの世に生を受けたものだ。・・・それに帰蝶さんとの間には子供は生まれていなかった。
俺と帰蝶さんとの間に子供が生まれたと聞いて一番喜んだのが
『美濃の
と呼ばれて恐れられていた斎藤道三だ。
史実では天文22年(1553年)織田信長19歳の年に斎藤道三と聖徳寺(愛知県一宮)で会見し、その際斎藤道三を
「我が子達はあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐこと(家来)になる。」
と嘆かせた。
その聖徳寺の会見が娘や娘が産んだ孫の顔が見たくなった斎藤道三の思いにより前倒しで来年、天文20年(1551年)の正月に行われる事になった。
キャサリンから
「ヨーロッパでは公家様が乗る牛車と同様に貴族が乗る馬車があります。
幼いお子様と御母堂様も正徳寺に行くのですから馬車を作ったらいかがですか。
馬も1頭だけでなく2頭立てや4頭立て等がありますよ。」
と言われた。
「馬車か?面白そうだ造らせてみよう!」
さっそく俺は美濃屋の女主人おしのに
「馬車というものを造ろうと思う。
お公家さんが乗る牛車を参考にしようと思うのだが、京都に美濃屋の支店もあり顔の広いおしのさんなら何とかならないか?」
と頼み込んだら、ニコニコ顔のおしのさんなんと1週間もしないうちに
「京都の貧乏公家から古い牛車を大枚をはたいて譲り受けた。」
と言って名古屋の尾張支店まで運び込んでくれた。
これを素材に新たな馬車の乗り心地その他を研究させた。
俺は持ち込まれた古い牛車に馬を繋げて乗って見たが
「ハッキリ言ってよくこんなものに乗っていられる。
都大路をのんびりと牛の歩みで動いていたから乗れるだけだ。
田舎の悪路を牛より早い馬で速度を出して走れば乗っている人の内臓がひっくりかえる。」
という代物で、椅子にまともに座っていられず足の鍛錬にはもってこいの乗り物だ。
一緒に乗っていたキャサリンも
「こんな馬車には、もう二度と乗りたくない。」
と言ってグランベルの世話になっていた。
大きな車輪に車体を載せただけの代物で緩衝装置(ショックアブソーバーやサスペンション)等と言う
早速、鉄砲鍛冶に緩衝装置として板バネを使った足回りを研究させた。
鉄砲以外にも色々な事に興味をしめす津田監物にガタガタと飛び跳ねる馬車を見せながら
「馬車が飛び跳ねるのを押さえるのに板バネを使いたい。
その板バネに使うバネ鋼鋼材は鋼の中でも非常に硬度が高い素材なのだよ。」
と言った途端、新式鉄砲等にも応用出来ると研究心に火が着いて色々な硬度の高い鋼を造り上げるのだが、その前に津田監物が
「硬度ってどう測ればいいんだろう?」
と聞かれた。その時ガシャンと金属塊を落とした職人がいた・・・う~ん
「出来上がった鋼材に物を落として、その反動で跳ね返る高さを測定するというのはどうだ。」
監物と俺は青銅や鉄と鋼等の鋼材で次々と試してみた。
津田監物が集めた鉄砲鍛冶師達でさえ最初は
「やはり尾張の大うつけだ馬鹿な事をやっている。」
と冷ややかな目で見ていたが、明らかに青銅や鉄や鋼などの素材によって跳ね返る高さが違うと分かった途端尊敬の眼差しに変わった。
「硬度の他には強度なんて言うものを測れないのか?」
と若い鉄砲鍛冶の見習いが言うので
「
と答えた。ここで根来から鉄砲鍛冶衆の家族の中で火見達若い女の子が
「若様何か面白い事をやっていますね、これも出来そうなので、若様、親方様私達にやらせて下さい。」
と
火見達は鋳鉄作業や木工用旋盤の作製など何にでも手を貸してくれる、優秀な人材だ、これにより金属加工だけではなく、金属工学という学問分野が戦国時代に登場したのだ。
中には学術的な事に全く興味を示さない子もいたが、そんな子らは鉄砲の試射実験や訓練には積極的に参加して砲術分野で突出した才能を示す子供もいた。
何はともあれ馬車の第一号が完成した。
2頭立てで黒く漆を塗った箱型の4輪馬車だ。
失敗だった。・・・う~ん板バネの概念自体が無いこの世界では取付方法はもちろんのことバネとしての効果が無く、直接振動が伝わって酷い出来だ。
この時、あまりものを言わないマハラジャのサーシャが俺の下図に朱書きして鉄砲鍛冶に示した。
その後は少しずつではあるが板バネの効果が現れ、何度か試作を重ねて何とか納得のいく出来になった。
その開発途中でサーシャが悪乗りをしてショックアブソーバーやシートベルトも取り入れたので悪路をまるでラリーを走行する車両のように走っても大丈夫・・・木の車輪がその前にぶっ壊れた。
やはり鉄製の車輪にタイヤか・・・タイヤと言えばゴムか!
天然のゴムはメキシコ産で1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して欧州に持ち込まれたが、固まったり溶けてベトベトしたりする面白い物質と言うだけで、その後200年間ゴムの価値を見いだせていない。・・・硫黄と反応させると弾力性を持った硬いゴムになるのだがこれも偶然の産物だ。
合成ゴムは1940年(昭和14年)代になってやっと工業化されつつあった。
問題はゴムの木だ。
ヘンリー8世号には積んでいなかったが、解体していたポルトガルのガレオン船にもしも積んでいたらと探してみる。・・・なんと船長室の一角に観賞用の植物として置いてあった。ただゴムの木の生育限界は北緯17度線が限界だ。
このままでは枯れてしまう。
高温多湿で日当たりの良い場所で生育する。・・・直射日光は避ける?
ポルトガル船の船長室には窓ガラスがはめられていたが、転覆の際に何枚か割れてしまった。
そんな船長室の窓ガラスを使って温室を造った。
しかしこんな観賞用の細い木ではそれほどのゴムは取れない。・・・取れても消しゴム程度か。
よし!出来たその消しゴムも義父の斎藤道三の土産にするか。
ゴムの木の育成係に丁度おかよと桜子が遊びに来たので共に任命して何名かの部下を付けた。・・・これが悪かった。
ポヨンポヨンと胸を弾ませておかよの母親、美濃屋の女主人おしのが俺に会いに来た。・・・おしのはその前に俺の親父殿に桑名の戦いで織田家の姓を賜ったお礼を述べに来たのだ。
俺とおかよと桜子がゴムの木を育てるために新たに大きくした温室を見ていた。
この温室の板ガラスを・・・最初は吹きガラス法を使っていたが工程が多いので、西暦79年に火山灰で埋もれたポンペイでも使われていた砂型鍛造法で・・・造ったのだ。
ポンペイ、イタリヤのベスビオ火山の噴火によって火灰が降り積もり町一つが埋め尽くされて、町は風化される事なく時を待った。
その町が見つかり掘り起こされる。
その町は西暦79年のものとは思われないほどの高い文化を持っていたのだ。
例えばその町の浴場の採光窓が砂型鍛造法によって造られたガラスが使われていたのだ。
この砂型鍛造法で現在もステンドグラスのガラスとして使われている。
このベスビオ火山の噴火で消えたポンペイの降り積もった灰の中で人が腐敗して消えて、そこに石膏を流し込み遺体を復元したりもしている。・・・椅子や机などの家具についても同様に復元している。
おしのさんは公家の乗る牛車が馬車に変身したと聞いて、遊びに来て見ると娘のおかよが温室なる物の中に入って何やら細い木の手入れをしている。
その時板ガラスに目を付けたのだ。
「私が京都で買い求めた古い牛車が見事な馬車に変わっりましたねぇ。
それにおかよの話では板ガラスで温室というものを造ったという話も聞きましよ。
馬車や板ガラスは商売にならないのかねぇ?」
「ところで若様おかよのことどう思っているのです。
若い異国の黒髪の女の子や北畠の後家さんを
その割には私の胸をよく見ているわねぇ。ねぇ若様?♡♡♡ムフッ♡」
と脅された俺は
「おかよさん達とはもう既に同衾したことがある。」
と白状させられて正式に側室にする事を約束させられ、それに板ガラスと馬車の製造産業に加わ割ることを許した。
おしのさんが俺のたんなる小母さんから義母さんなった。・・・本当にオッパイの威力は怖い♡
馬車の製造か!前世でも愛知県豊田市が車産業の中心地だ。
その地で馬車製造か何か因縁めいたものを感じる。
しかし出来上がった真黒な馬車を見て華やかさが無い!
伊勢の国を支配下に置いた事から銅どころか金や銀までも採掘できる紀州鉱山が手に入っているのだ。
そこで採れる金で織田木瓜の家紋を入れた。
真黒な馬車に金の家紋を入れただけで華やかになったのだった。
こんなふうにして義父斎藤道三との会見の準備が整っていった。
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