第14話 教育
俺の進める農業の形が桑名港周辺では整ったおかげで飢えから脱却して、農民の生活は向上したように思われるが・・・いまだに子供達が牛馬のように使われている。
子供でもこの当時は労働力である
「親が子供を食わせるのだから、親の言う事を聞いて子供も働かなければいけない。」
と身体も出来ていない子供を大人なみに働かせる。
それにこの時代の教育水準は低い、戦国時代では武士でさえも読み書きができなくても
農民ならばなおさらで
「勉学等と言う毒にも薬にもならないもので遊ばせるぐらいなら働け。」
と思っている。・・・う~ん元々勉学をした事が無い人たちなのだからしょうがないと言えばしょうがないのだが・・・。
それに優秀な薬師集団の中にも字の書けない人がいたのです。
そんな人も口伝と今までの体験した知識を活かして薬師として活動していけたのです。・・・中には文字が読め字が書ける人物もいるにはいたのですが・・・。
この当時の薬師の仕事は草花等を使った漢方医というところでしょうか。
チドメグサは血止めに効くと言った伝承程度でも薬師として活動できたと思われるのです。
俺は農地の改良などで桑名港周辺等の各村を歩くが、貧乏人の子沢山で出生率は高いが、成人になる子供の数は極端に少なく平均寿命も35歳ぐらいでした。
俺達武士は貴族階級でそれ以外の農民の生活環境もとんでもなく悪い。・・・武士の方が栄養状態が良いのか長生きで70歳や80歳まで生きる人が史実でも何人もいる。
平均寿命が低いのは農民は農奴のような扱いで栄養状況が悪いことや住居も隙間風の吹き込むような家屋で、着の身着のままで板の間で寝起きしている。
これではまともな教育を受ける機会は無いし、平均寿命が35歳と短くなるのは当たり前である。
平均寿命を延ばす方法として思いつくのは食生活の改善である。
食生活の改善?!そうだ桑の里では牛を購入したことから、この時代でも栄養価の高い牛乳が手に入った。・・・牛乳からできる乳製品の製造も目指すか。
問題は禁忌(タブー)視されている肉類の摂取だ。・・・これは乳製品等が出来上がってから考えるか。
牛乳は腐敗しやすいので冷やして滅菌するんだっけ?・・・この時代の技術じゃ無理だが、牛乳を絞る行程や絞った牛乳内に雑菌が入ると不味い事になると聞いたことがる。
それでこれも美濃屋の雇ってくれた優秀な薬師集団に相談したところ
「雑菌等と言う考えは聞いたことも無い。
そもそも雑菌て何?」
から始まったが
「若様が言うのだから雑菌てあるのだろう、怪我をしたら酒で消毒するのだから何とか考えてみる。」
と言いながら取り出した酒が
「酒で消毒と言っても濁酒では不味いかも?
消毒用の蒸留酒を造っては。」
この時代の理化学の権威である薬師様も頭に?マークである。
濁酒を熱して蒸留酒を作って見せた。・・・う~ん清酒を造るのは灰を混ぜると濁酒が清むのだがこちらもやって見せた。
清酒にした方が断然上手い!
また蒸留酒の方がアルコール度数が高い臭いだけで酔ってしまいそうだった。
俺が桑名周辺で行っている農業方法の普及それに農作物、清酒、乳製品が上手くいけば当然それ等の販売促進のために、尾張屋と同様に織田家出資率100パーセントの食糧卸問屋
『三河屋』
を創立しようとした。
ここでまたまた美濃屋の女主人おしのさんが
「若様酒!清酒なるものを味見させてよ!」
等と言って俺の養桑屋敷に入って来て、俺に注がれた清酒を飲むや
「美味い!美味い、新吉、おしん飲んでみよ。
若様それに乳製品とやらをつくるのだってぇ?
この乳製品とやらも
それに今飲んだ清酒が濁酒から簡単に清酒になるんだってぇ?
これはもっと面白そうだからねぇ。
それじゃあ、私にも一枚かませておくれよ!?」
とオッパイを揺らしながら乳製品はもちろんのこと酒造りまで参入してきた。
清酒造りは好調で清酒の方が先に日本国を統一しそうだ。
この金の力で織田領内で牛や馬の放牧場が各地に出来上がり、その放牧場の横には乳製品を作る工場や精肉工場、肉製品や革製品の加工工場までもが出来上がった。
その放牧場も約2里(1里約3,9キロで2里では約7,8キロ)ごとに道路脇に造られて急使の早馬などの乗り換え地点として宿場として発展していったのだ。
牛の衛生管理が整い牛乳の方が飲めるようになって食生活が改善しそうな状態ではあるが・・・肉類を食する事にいまだ禁忌を覚えているのか牛乳も売れない。
売れずに腐らせるぐらいならと何処かに無償提供をすれば良いのだが?
「あれ殿様また何か悩んでいるの?」
と子供ながら働き者の長吉君が何やら書物を持って近づいてきた。
こいつは元越後屋の長男だったが後妻にいじめられて俺の元に来たが学問好きだ。
子供・書物・学問・学校・・・そうだ寺子屋を作ろう!
寺子屋に集まった子供に牛乳や肉類を無料で与えれば、禁忌としている肉食をする人が増えるはずだ。
俺の周りでは長吉君のように書物を読める人材は珍しい。
この戦国時代の教養人と言えば京都に住むお公家さん達で京都に独自の高い文化を維持していたのです。
その高い文化、教養も儒教の経書である四書五経や古今和歌集や伊勢物語、源氏物語を学ぶ事だった。
学問と言えば昔から
『読み書きそろばん』
を思い出すだろうがこの戦国時代では算数・・・足し算も引き算・・・も一般の人は知らなかったのです!
数字も漢数字でアラビア数字等と言う便利なものが無い!・・・当然ゼロと言う概念も無い。これは弱った。
それに算数と言えばそろばんですが、そのそろばんも丁度この頃、明国から入ってきたそうです。
それもそのそろばんは2個の五玉と5個の一玉を使う16進法用だったのです。
前世はどちらかと言うと剣道馬鹿で脳筋な俺なので16進法等はついていけず、俺にはお馴染みの10進法用の1個の五玉と4個の一玉を使うそろばんにしました。
俺は四書五経などと言う前に庶民の子供達の為に、せめて文字が読み書きが出来、そろばんがはじけるようになる為の寺子屋を時代に先駆けて・・・教育機関としての寺子屋が庶民に普及したのは政治や経済が安定した江戸時代からだと言われているのです。・・・桑の里で造る事にしたのです。
寺子屋の主は寺の住職です。・・・それで「白羽の矢が立つ」たのは織田信長の知識の師匠、臨済宗の
この沢彦和尚は俺が美濃を統一した後に美濃を
『岐阜』
と命名した命名者であり
「後は殿(信長)の天下布武です。」
と言った人物でもあるのです。
問題は読み書きそろばんのそろばんの方です。
俺は10進法用のそろばんを作り、そしてさも西洋の書籍の中から見つけたように沢彦和尚にアラビア数字が書かれた算数の本を見せたのです。・・・小学校1,2年生の算数の教科書を俺がでっち上げて造ったのです。
沢彦和尚そのアラビア数字に興味を持ち、俺が作ったそろばんの使い方と俺がでっち上げたその算数の教えを乞いに桑の里までついてきたのです。
和尚この場所が気に入ったので最初は草庵(仮小屋)程度だったものを本格的な寺を建てたのだ。
その草庵や寺が寺子屋になった、というのも沢彦和尚、暇の時は付近の子供を集めて読み書きは勿論のことアラビア数字や俺の作ったそろばんや俺がでっち上げた算数の本を使って教え始めたのです。
最初のうちは桜子とおかよ赤堀家の双子と長吉君だけでした。・・・う~ん集まる子供がいない。
戦国時代の世の中、勉学よりも生きる為の手伝いをさせられる。
俺はそんな痩せ細った子供達を当初の目論見通り食物で釣ることにしたのです。
俺が造った牧場で出来あがった牛乳の無償提供や精肉製品や加工製品の食事の無償提供を始めると飢えた子供が集まってきたのです。
集まった子供達は牛乳を初めて見る子も多く、桜子やおかよと赤堀家の双子や長吉君が飲んで見せると最初は恐る恐るではあるが配られた牛乳を飲んでくれたのです。
肉類の食べ物を昼食にも提供したのです。
子供達は飢えているので
「ただでご飯が食べれる。」
という噂が噂を呼んで子供達が集まってきたのです。
このおかげで寺子屋には子供達があふれて、禁忌の肉食等をする人が確実に広がっていったのです。
桑名周辺だけでなく織田領内にも寺子屋が建てられていったのです。
寺子屋や肉食の風習が根付いていったが、幼い子供が病気で無くなるものが多く怪我人が絶えないのが問題だった。
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