第4話 天文16年塩硝の生産地を求めて

 天文11年(1542年)に鉄砲(火縄銃)が種子島に伝来して戦法が大きく変わってきた。

 その鉄砲に使う黒色火薬は硫黄と木炭と硝石(塩硝)が原料になる。

 その黒色火薬の原料のうち、天然の硝石は雨に溶けやすい為この国には無い、無ければつくれば良いと考えた。 

 江戸時代に加賀藩は五箇山という所で『塩硝』と言う名前で硝石を造っていたはずだ。・・・なにせ江戸時代こんな事が知れれば謀反とみなされて藩主一族郎党は皆殺しで藩が潰れたはずだ・・・よく生き残ったものだ!


 塩硝を造る方法は培養法と言って、蚕の糞や草を養蚕家屋の床板下に穴を掘って4年から5年の間醸成させた土と灰汁を反応させて硝石を造るというものだ。

 親父殿、父親の信秀さんには塩硝造りとは言わないで


「桑の葉を食べた蚕から絹織物を作る。」


と言って金を出させる算段をした。

 親父殿は金持ちだ天文12年には朝廷の内裏修理料として4000貫文(現在の金に換算して約4億8千万円)を献上している。


 問題は場所だ俺は親父殿から借りた地図とにらめっこ中だ。

 面白い場所を見つけた。・・・現在の三重県桑名市だ。このころの地図は手書きで地名もろくに記載されていないが桑名の文字が目に入った。

 天啓だ!蚕を飼う為には桑が必要だピッタリな名前だ。・・・それに俺が天文16年(1547年)に初陣で負けてからそれほど高くなかった評価がとうとう地に落ちてしまった。

 それに


『尾張の大うつけ』


ののしっている母親や信行から離れられる。

 問題は、この桑名は伊勢(現在の三重県)内で織田家の支配地ではなく、伊勢国の国主である北畠晴具きたばたけはるともの支配地であり、かつ交易の中心地で商人の港である。

 織田家が津島(那古屋城近く)と熱田(熱田神社近く)の二つの港を支配下に置いて税収入で豊かなように、この地から上がる税収入で北畠家も潤っている。

 この様な場所では北畠晴具が手放すわけがない。

 また一所懸命と言う言葉もある通り土地問題は重要な課題であり群雄割拠の戦国時代では如何いかに土地を相手の国から切り取るかが課題なのだ。


 その伊勢の国内に軍事力ではなく金の力で拠点をつくろうというものだ。・・・負け戦で兵力があまりなかったのも原因だ。

 方法は織田家100パーセント投資の物流、海上貨物輸送の会社、会社名も

『尾張屋』

を立ち上げて本社を名護屋城下に置き、桑名港付近の土地を買って支社をまず創設するというものだ。

 桑名港付近で土地を買うとは、この当時堺港と同様に桑名港も環濠都市かんごうとし・・・塀に囲まれた矮小な都市国家・・・で買い求められる土地は無い。


 最初は支社を建て、蔵を建て港湾労働者(兵士)を雇い、商品を守る為と偽ってさらに兵をいれるのだ。・・・う~ん、それでも北畠晴具さんが攻めてくれば海に逃げるか。

 大うつけの大うつけたる所存である。


 しかし引っ掛かるものがある、もう一度地図を見る。

 桑名が手狭で土地を売ってくれないとすれば、木曽川と長良川等の間にできた中州は?・・・ここは売ってはくれまい、尾張屋は織田家だと相手も気づく・・・ここでは桑名に付け城を造らせるようなもので地理的、戦略的にも売ってはくれまい。

 そうすれば員弁川いなべがわよりも南、北畠晴具さんの本城、多気御所により近いところを売り払うはずだ。

 それに城を建てようとすれば北畠家の手の者によって壊される。・・・う~ん壊される前に城を建てる・・・一夜城か!一夜城で思い出した! 

 木下藤吉郎(太閤秀吉)が行った墨俣の一夜城たしかプレハブ工法で城を造ったのだ。


 大工や左官、瓦職人を呼び集めて・・・上手くいかない!?

 若い大工の関地なる者が


「図面を書いてあっても良く分からない、どんな風になるかを見せてくれ。」


と言うのだ。・・・う~んそうだ模型だ。

 床や屋根、壁の模型をつくって組み立てて見せた。

 さすがに職人分かればやることが速い。

 プレハブ工法で床や壁、屋根を造り始めたが、これでも2,3ヶ月以上はかかる。

 プレハブ工法で出来た荷物を運ぶ為の船を津島港に見に行った。

 津島港には安宅船が登場するまでは最大の和船である関船が停泊していた。

 全長23メートル艪の数50挺、帆走も可能な船だ。


 ところで帆であるがこの時代の日本では1本マストに1枚の横帆が主であった。

 この帆でも風上方向には推進が得ることはできるだろうがより効率よく風を受けることが出来るように俺はそれを現代のヨットのように縦帆2枚に置き換えてみた。

 向かい風に向かって進むときは向かい風の揚力を利用してジグザグに進むのだが方向が変わる時に船体に水圧を受けて当時の竜骨の無い構造の和船では壊れてしまう事がある。・・・当時の和船の形的には現在の上陸用舟艇みたいな形かな?

 それで船大工や船頭を集めて実際に関船より一回り小さい小早でヨット風の帆で実験したら風上に向かって進み始めたが、方向転換しようとしたところで竜骨の無い構造では船体が壊れたり、転覆したりした。

 ここで船体が壊れないようにするために竜骨の話をしようとしたが


「尾張の大うつけ」


ののしられて集まっていたほとんどの者がいなくなった。

 現在でもみられる和船の竜骨は江戸末期に唐船を模して作り上げたものだ。

 この和船の竜骨は間切航まぎりがわらと呼ばれ舳から艪まで通るもので、この構造では進路変更の際にバランスを崩して転覆してしまう。

 これを防ぐのがヨットに見られる魚の腹鰭(センターボード・フィンキール)のようなものを付ける事だ。

 それに衝角・・・ぶつかった際、敵船の船底に穴をあけて沈没させる。・・・も備え付けた。


 せっかくプレハブ工法の図解だけの説明では理解できなかった事に反省して、現代風のヨット・・・衝角は無いか。・・・の模型を造ったのに。

 そう思いながらも残った船大工や船頭に見せたら喰いついた。

 時間も無いので俺の旗艦の尾張丸だけ竜骨を備え付ける為の改良が起こなわれた。

 当然ながら衝角まで備え付けさせた。・・・う~んこれで敵船は驚くだろう。


 そのヘンテコな帆とヘンテコな竜骨により尾張丸の全長も30メートル以上に伸びて形が大きく変わった。

 なんやかんやで半年もかかった。

 船出である俺は今回の旗艦尾張丸に乗りご満悦だが、その尾張丸に傅役の政秀さんが乗り込む際に

「やれやれ。」

と頭を抱えながら乗り込んで来た。

 出港後、今までは他船を大きく引き離して進むうえ、当時の和船の強度では決して風上には進めず艪を使っていたのに向かい風を受けても船が進むので


「若!何と凄いものを造りましたね・・・?!」


と言って驚いている。

 織田家旗艦の尾張丸にはプレハブ工法の荷物を満載している。

 船団として随行するのは、船の改修が間に合わなかったので、今までどおりの関船『木曽丸』『庄内丸』『扶桑』『愛宕』の4隻で、この船には商品の代わりに櫓を漕ぐ兵士50名の他60名の兵士を乗せている。

 いざ桑名港へ向けて船旅は続く。

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