第3話 織田の若様
天文16年(1547年)織田信長の初陣(実は負け戦)の後、俺は織田の若様に成り代わって織田家の主城那古屋城に戻った。
敵の長田重元は敗走する織田軍から多数の首を取って13もの塚を造ったとあるが。・・・800名中の実は13名のみが死者だとすれば死者率は1,625%で高くはないが、1つの塚に10名づつなら死者率16,25%と跳ね上がり殺傷能力の低い武器が中心だったことを考えるとこれでも多いのかもしれない・・・。
そうは言っても負け戦、織田家の主城那古屋城に戻っても尾張の大うつけの織田信長では肩身が狭いのは変わりがない。
後年に後継者争いをする母を同じくする優秀な弟の信行(信勝・・・現在では信勝とする説が主だが、名前がコロコロと変わるこの時代なので本編では俺の慣れ親しんだ信行とする。)からは無能なうつけ者として冷たい目で見られる。
それに俺は前世と同様肉食を好んだ。
この時代は肉食を禁忌としている。
肉を焼くにおいが城内に立ち込めると実母の土田御前が
「獣の肉を喰らうな。獣になるぞ!」
等と言って怒鳴り込んでくる。
それを嘲笑しながら見ているのが信行である。
俺(信長)には母を同じくする兄弟姉妹が信行の他に信包、秀孝(喜六郎)、市、犬がいる。
俺の弟である4男の信包(天文12年7月17日〈1543年8月17日〉生まれとも天文17年〈1548年〉生まれともいわれる)そして5男の秀孝(天文10年〈1541年〉ころの生まれ)の誕生日だが良く分かっていない。・・・調べた誕生日では4男と5男が逆転する場合がある。
ただ二人とも亡くなった年ははっきりしている・・・信包は慶長19年(1614年)大阪冬の陣直前に吐血(毒殺と見られる)死亡した。弘治元年(1555年)秀孝は叔父の織田信次に無礼討ちにあって死亡したとされている。
信行が天文5年(1536年)生まれで2歳下なのは判明しているが、信包と秀孝の年齢がよくわからないのは当時とすれば畜生腹と嫌った双子では無かったのではないかと思われる。・・・その理由は信長同様に織田家では、そのほとんどが「信」の字が用いられているのに秀孝と命名している。それに母親の土田御前も畜生腹となじられるのが嫌で生年月日を
妹の市と犬も生年月日がよくわかっていない、この二人も双子で『犬』等という名前も双子で畜生腹となじられて逆に居直ってつけたのではないかと思われるのだ。
双子とすれば信包と秀孝の二人とも天文10年生まれで、信長(俺)の7歳下で市と犬は俺の初陣の天文16年(1547年)今年生まれたばかりと見るべきだ。
俺が初陣で戻って来た時、信包も秀孝も6歳児で
「御兄さま、御兄さま。」
と
本当に信行に比べると、信包、秀孝とは仲が良い。
俺が獣を狩って来て塩を振っただけの焼き肉を食べていると信包と秀孝がその肉を食べにくる。・・・そのおかげか、この時代の他の6歳児に比べればはるかに体が大きくなっている。
俺と信長とが入れ替わっていても信行を偏愛して他の子供達には冷たい母親よりも俺の方が良いのだろ。
話はかわるが織田家には金がある!
津島(那古屋城近く)と熱田(熱田神社近く)の二つの港を支配下に置いているからだ。
陸路を使うよりも海路や河川を使う方が商品を多く運べるうえに速い。
港の使用料として商人から金を巻き上げていた。
俺は那古屋城に戻ってからは、どうやら傅役の平手政秀に正体がばれていたようで以前の若様に比べると当時の現代教養が足りないと小言を言われた。・・・ドキッ!
それで午前中は武術と教養の時間だ。
ただ武術の方は、どんな偉い武術家が指導に来ても今のところ俺の相手にはならない。
漂泊の武道家、塚原卜伝さんでも来ないかな?・・・俺の強さには傅役の平手政秀さんも驚いている。やり過ぎかな?
確か塚原卜伝さんは1489年生まれで俺は1534年生まれだから45歳差、親子ほどの歳の差だ。・・・ただ卜伝さん長生きで83歳まで生きたのでいつかは出会えるだろう。
金魚の糞のようにくっ付いている信包と秀孝に俺が自ら削って作った木刀を与えて3人で素振りをする。
信包と秀孝は俺から木刀を貰ってニコニコして素振りをしている。
当事の現代教養は和歌や茶道、そして仏教の時間で習字を兼ねて写経が主だ。
ここで使われるのが美濃和紙だ。
美濃和紙と呼ばれるくらいなので御隣の美濃の国今の岐阜県で作られている。
ところで美濃と言えば、傅役の政秀さんが現在推し進めているのが美濃の国の斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)との婚姻ですね。
彼女は出戻りで、元旦那は先の権力争いの敵側になった土岐家につながる者で道三に討ち取られてしまったからです。
道三にすれば傷物になったとはいえ娘を敵国の若様に和睦の為に差し出す形になったのです。・・・政略結婚と言うやつですね。
先ほども書きましたが織田家は津島や熱田の港を抑えていたことから美濃の国に経済封鎖を行う事が出来るのです。・・・斎藤道三は若い頃油を売っていた事もあり経済について詳しかったので経済封鎖が死ぬほど怖かったのでしょう傷物になった娘を差し出す事にしたのです。
今日の午前中の武術の時間に火縄銃で的を撃ち抜いている!?・・・天文11年(1542年)種子島に鉄砲が伝来して翌年には国産化に成功して「根来寺」や近江の「国友鍛冶」に技術が伝承され、その1丁が俺の手元に回ってきたのです。
それを使って的を撃つ。
『ドーン』
と言う大きな音がして的の40センチ四方の板が割れる。
横で見ていた実弟の信包と秀孝が驚いた顔をして耳を抑えている。
土田御前が火縄銃の音に驚いて転んだそうだ。・・・この失態でなおさら俺の事を「大うつけ」となじっているそうだ。
信包と秀孝が火縄銃を撃ちたそうにしているが弓も引けないのでは少し早い。
そうだ!
クロスボウ(石弓)
を作ってあげよう。・・・半年後には試作品が出来て、信包と秀孝にそれぞれ渡した。・・・父親の信秀さんが信包と秀孝が未だ6歳の児童で弓も引けないのに与えたクロスボウでは
ところで火縄銃の有効射程距離は50~100メートルで的に8割も当たればよいほうだ。
さすが織田家は金持ち、鉄砲もそうだが鉄砲弾1発撃つにも金がかかるのに訓練で何発も撃たせてくれる。・・・土田御前その音を聞くたびに失態を演じたことを思い出してか俺に対して腹立たしくなじっているようだ。
火縄銃は今のところ雨で使えなくなる事と命中精度が悪く黒色火薬の主な原料の硝石が手に入らないのが問題だ。
雨の日でも使えるようにするには薬莢を使う方式にすれば解決できる。
命中精度を上げるにはライフリングを入れることだ。・・・簡単に言えば銃身内部に溝を掘って弾丸に回転を加えて真直ぐ飛ばすようにする事だ。もっともこの時代の人にわかりやすく説明するために手首を回転しながらの突き技を見せた。これで納得してくれた。
薬莢やライフリングは鍛冶師と薬師に丸投げだ。
残った問題が火薬の主な原料の硝石が手に入らない事だ。
天然の硝石は雨に溶けやすい為、雨の多いこの国にはない。・・・う~んそう言えば加賀藩の五箇山等で『塩硝』と言う名前で硝石を造ったはずだ。方法は確か培養法と言って、蚕の糞や草を養蚕家屋の床板下に穴を掘って4年から5年の間醸成させた土と灰汁を反応させて硝石を造るはずだ。
思い出せば直ちにやってみるかな?・・・なにせ織田信長は鉄砲で天下を取ったのだ。
俺は五箇山方式で桑畑を造り蚕を飼うことにした。
蚕は絹糸を造り出す。・・・金持ちは絹の着物だろう!親父殿に桑畑を造って絹織物の産地を造るというと、親父殿は絹の着物が着れると聞いて
「金は出してやる。やってみろ。」
と言って喜んでいる。
クロスボウ(石弓)を量産化できるようになり他国に対して優位に立ちそうになったことが俺への評価をあげている。
問題は硝石の関係があるので何処で誰に頼むかだ。・・・う~ん織田信長になったばかりで子飼いで信用のおける部下があまりいない。
実弟の信包と秀孝は元服前で幼すぎる。
いるとすれば織田信長の傅役の(平手)政秀さんか乳兄弟で
まあ俺は金持ちだ金で部下を飼うか?士分では無いが能力が高い者が良い。
しばらくは俺が蚕を飼う場所の選定だ。
地図と
面白い場所を見つけた。・・・現在の桑名市だ。このころの地図は手書きで地名もろくに記載されていないが。
蚕を飼う為には桑が必要だピッタリな名前だ。
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