文字喰い

雪屋双喜

第1話

 その男は顔を隠すように本を開いていた。揺れる電車の中でつり革も掴まずに、両手で開いたハードカバーの文章を読んでいた。いや、喰らっていた。


 その男に気が付いたのはまったくの偶然だったように思う。小さく揺れる車内で、男は顔からほんの数センチのところで本を広げていた。その姿は何かを引きずり込むようで、私は興味をそそられた。


 次の駅で年若の女子高生が一人、それの前の空いた座席に座った。そう、席は空いていたのだ。私は車両の扉に体を少し預けて立ちながら、顔の見えないその男を三メートル程先に見ていた。


 電車が揺れて、一瞬男の上げた顔が見えた。


 目は墨を垂らしたように黒く、何も捉えようとしないかの様だった。彫りの深い角ばった骨格に貼り合わせたような薄い肌がのっかっている。歳は二十五を過ぎたくらいか、すらっとした長身が猫背なことも相まって不気味に感じた。


 また揺れて、今度は口が見えた。男の口の周りには黒い何かが、食べかすのようにくっついていて、顎は何かを食むようにして動き続けている。食べかすに見えた黒い物は、よく見れば顕微鏡で覗いた細胞のように幾つかの筋に並んでいるようだった。


 私は直感的にそれが文字列であることを知った。鏡文字になった文章が口の周りに意地悪く残っているのだ。開く本は心なしか空白が目立つようにも思う。


 私がそれらを観察し、より確かな証拠を得ようと思うその時、男と目が合った。先程までとは異なる鋭い眼差しは私を確実に捉え、何かしらの結論を与えたようだった。


 男はこちらを一瞥した後、口の周りを丁寧に拭き、本を手持ちの鞄へと片付け、私のすぐ横を通り、そのまま電車を降りて行った。私はその時、男がこう言うのを確かに聞いた。



 To be, or not to be, that is the question.



 何だか味気なく感じて、私は男が立っていた場所を眺めた。席に座っている女子高生はそこでスマホを握ったまま舟を漕いでいる。


 私は男の言葉を口の中で繰り返した。




 To be, or not to be, that is the question.




 舌の上に苦味を感じてからやっと、令和の書き物はとうてい喰えない理由を私は悟った。

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文字喰い 雪屋双喜 @yukiyasouki

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