第2話
中島義道の本で齧った知識なのだけれど、バールーフ・デ・スピノザという哲学者は(誰だっていいのだけど)「この私から肉体がなくなればいいのに」というような言葉を残しているそうだ。その気持ちはぼくにもわかる。というか、かつてのぼくだったらその気持ちに共感していたと思う。今でさえぼくは自分の肉体が嫌いだ。醜く太っているこの身体……筋骨隆々とした人がセクシーだというのなら、ぼくの身体は醜く脂肪をまとった豚でしかないだろう。ぼくは自分の肉体を憎む。いっそのこと知覚する機械になりたい。そうすれば肉欲を捨てられる。
ああ、女の子たちはどうしてみんなあんなにも柔らかく甘美な存在なのだろう……と書いて、そんなことは当てはまらないとも自分に言い聞かせる。女の子たちはもっと多種多様である、と。でも、ぼくが心に思い描く憧れの女の子たちの姿というのはみんな立派な肉体と聡明な知性を備えた、とても凛とした人たちばかりだ。もちろん、これが現実離れした世迷い言であることをぼくはわかっている。自分にそう言い聞かせる。のだけれど、ぼくはやはり最後には完璧な女性の前にひれ伏したいと思ってしまうかもしれない。そういう心情は確実にぼくの中に存在する。
ぼくの中にある、理屈になる以前の感情の激流……それを本能と呼んでもいいのかもしれない。ぼくはもちろん本能をむき出しにして生きることが人間らしいと考えるスタンスを採らない。いや、人間らしいのかもしれないけれどそのような粗野な状態が続けば人は今まで血を流しながら築き上げてきた理性/ロゴスによる理知的な社会を捨ててしまうことになる。それは避けたい。でも、そんなぼくの中に確実により幼い自分自身がいて、その自分は女性に甘えたいとも思い、女性のことを自分の欲望に任せて扱いたいとも思ってしまう。
今日は久々にジョージ・マイケルのソロアルバムを聞きながら作業をした。ジョージ・マイケルにぼくは憧れる。永遠のポップスター。ヒップなセレブ。ぼくに持っていないものを持っている。才能。ルックス……言葉にならないまま書いてみて、ぼくは未だに自分のルサンチマンの檻の中に閉じ込められているから歪んでしまうのかもしれないなと思った。でも、ぼくは「今のぼくでいい」と居直ってしまうこともためらってしまう。川本真琴が「フラジャイル」で歌ったように、ぼくはこのままのぼくのまままっすぐ歩き出すべきか戸惑ってしまう。多分こんな風にして戸惑ったままでいるから贅肉がついてしまうのかもしれない。踊り始めないと。
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