ドラウナーズ
踊る猫
第1話
このところ、ぼくは自分の左足と右足の間にある器官のことを考える。もちろんそれが何なのかは言うまでもないだろう。そいつのことを男たちは「息子」と呼び(そいつも「オス」「男」であることをどうしてその人は理解したのだろう。自分の「子」が「娘」だって可能性に至らないのはどうしてなのだろう?)、そして排尿やもっと重要な行為のために駆使する。むろんこの「男たち」は「肉体的に『男たち』」であって、精神面ではまた違ってくるかもしれないのが多様性の進んだ社会の面倒くささであり、かつ必要とされる繊細さなのだけれど。
その「息子」は、時に固くそそり立つことがある。ぼくはそいつを人と比べる趣味はないので客観的に見てどれだけの大きさなのかわからない。前に学校で過ごしていた時(中学生くらいの頃のことだ)、特に何もしていないのにその「息子」は固く立って(「勃って」?)しまった。おかげでクラスメイトにひどく笑われた……そうでなくとも、というか大きくなって当然である状況であってもぼくはそいつが健気に自己主張をしているのを見て、何だか情けなくなることがある。ちなみにぼくは子孫を残すことをポジティブに考えたことは一度もない。
今マイケル・ルイス『後悔の経済学』という本を読んでいるのだけれど、その本の中で「大きな選択は、実際はでたらめだ。小さな選択を見たほうが、その人がどういう人間かわかるだろう」(p.138)というフレーズが現れる。人生を変えるような決断はでたらめになす他ないが、日々の選択はその人の個性に裏打ちされて秩序立てて考えられるということだ。ぼくは運命の女性にめぐり会ったことは3度ほどあるが、そんなことより今日も海外のMILFと呼ばれる人妻もののポルノを見たことを書いた方がぼくのことはわかってもらえやすいのかもしれない。いや、書くべきかどうか迷っているのだけれど。
実を言うと、今日もぼくは自分の「息子」の世話をした。ずっとこいつに引きずり回されて生きて、そして死んでいく。ぼくの中の性欲(リビドーと呼ぶのだろうか? フロイトは知らないのだが)は時に知識欲や向上心になるのかもしれない。そんな時、ふと前に読んだ坂口恭平『苦しい時は電話して』のことを思い出し、この「悶々」とした感覚をぼくなりの「小説」にしてみてはどうだろうと思うようにもなったのだった。それがこれだ。タイトルはぼくが最近になって聴き返しているイギリスのロックバンドのスウェードの曲から採った。特に意味はない。さて、どう書くべきなのだろう。
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