八番目、そして運命のロンド。

 少女が一人佇んでいた。

 整えられた髪はふんわりと、瞬き一つせず墓を見下ろし佇んでいた。長いまつ毛と力強い瞳。瞬きを忘れ手に持った花が供えられもせず風にそよぐ。

 不意に溢れた涙が縁を越えて頬を流れる。それでも少女は微動だにしなかった。

「ユエニファ? 行きましょう」

 丘を下って来る少女トゥーラの声に少女ユエニファは意識だけを向けた。その痛々しい様相にトゥーラは極めて冷静を保つよう意識し困ったように苦笑を浮かべる。

「またいつでも来られますわ。エルフリーデにご挨拶はできて?」

「エルフリーデは死んでいませんよ」

「貴方は信じていらっしゃるのね。エルフリーデとの付き合いは私より長いのでしたかしら」

「えぇ……」

 その年数は六年と決して長い方ではない。それでもトゥーラよりは付き合いが長い。

「そうなの? すでに冒険者として活躍していたのよね」

 雪の降る寒い夜だった。エルフリーデに出会った時のことを思い出そうとし、ユエニファは思ったよりもその記憶が無いことに唖然とした。思った以上に動揺し表情にも滲み見えてしまう。それは出会いがどうでも良かったから忘れたわけではない。

 エルフリーデとの思い出があまりにも多すぎるせいだ。

 細めた目からまた大粒の涙が流れ、あまりに痛々しくてトゥーラは見ていられなかった。思わずユエニファを抱き寄せ、身を寄せてしまう。

「こんな事なら無理やりにでも引き留めれば良かった……」

 ユエニファの口から洩れた言葉にトゥーラも苦々しい思いだ。

 どうして彼女はそこまでドラッベンラに忠誠を誓うのか。同情か弱みか。助けになると何度彼女に告げたことか。しかしエルフリーデは少し笑って微笑んで、大丈夫と困ったように呟くだけだった。

「行かないでって言ったのに……」

 トゥーラはため息をついた。

 ドラッベンラが追放された時、最後の最後までユエニファはエルフリーデに行かないよう、残るよう懇願していた。しかしエルフリーデはユエニファを抱きしめ、頭を撫でるとそそくさと馬車に乗ってしまった。

「あの子は主人を間違えたのよ」

 何があの子を、そこまで忠臣足らしめたのか。

「そんなのどうだっていい‼」

「一緒に釣りした時の事、覚えている?」

「……えぇ」

「あなたが飢えた魚を餌でおびき寄せ針で刺して釣るのは可哀そうとか言い出して」

「そうだね……」

「魚を釣るならすでに売っているのを買いましょうって、結局魚を買って食べたのよね。みんなあきれるなか、エルフリーデだけが微笑んでいた」

「木で刺して焼いて食べたね。あなたはそれでいいのって言ってくれた」

「学校にお泊まりしたわよね。貴方達ったら姉妹みたいに髪をとかして」

「えぇ……えぇ。ごわごわの髪を丁寧に整えてくれた」

 思い出は美しく、ユエニファの瞳から大粒の涙がぼろぼろぼろぼろと零れた。

「誕生日には毎年お花で冠を作ってくれた」

 嬉しかった。

「毎年違う花で、しかも手作りだったわね」

 一人で寂しい時はエルフリーデがいてくれた。困った時もエルフリーデがいてくれた。見守るように包んでくれた。生き抜く術、戦う術を教えてくれた。料理を教えてくれた。自分の動作、やり方一つ一つにエルフリーデが透けて見えて。

 偽善だと陰口をたたかれた時も、偽善でも正しい事をした方がいいじゃないと抱きしめてくれた。正論が必ずしも正解じゃないことを教えてくれた。

 人の数だけ正義がある。

 どの正義を振りかざしても、争いを無くすことはできないと諭してくれた。

 いい話ばかりではない。我満を言ったり、暴言を吐いたり、うざいとか死ねとか言ったこともある。料理なんかいらないと言っても料理を作って持って来てくれた。顔も見たくないと言っても根気強く会いに来てくれた。甘えていた。唯一甘えられる人だった。

 考えるほどに膨れ上がる憎しみや憤りも、怒りや恨みもエルフリーデが包んでくれた。

 辛い時、悲しい時、傍にいてくれる人だった。

 楽しい時は傍にいてくれない困った人だった。

 寂しくて涙の出る時は包み込んで眠らせてくれた。

 怒りに打ち震える時は一緒に発散してくれた。

 私は万人にとって良い人でありたいと、そう思えるようになったのはエルフリーデがいてくれたからだ。この先もその道は続き、そこにはエルフリーデもいた。いたはずだった。

 何も感じない。何も思わない。

 涙がぼろぼろぼろぼろと流れる。何もできない。動けない。何をしたらいいのかわからない。真っ白な思考だけがあり、エルフリーデがいないという事実を認識できない。

 トゥーラに抱きしめられても何も感じない。

 自らの内から溢れ出しそうな何かを、どう発散すればいいのか。叫べばいいのか、暴れればいいのか、おそらくそれでは楽になれそうもなくてもどかしくてどうにかなってしまいそうだった。

 なぜだか唐突に、久しぶりに母を思い出してユエニファは泣きながら笑ってしまった。


 ユエニファはヴァーナヴィー領の西、隣接している誰にも管理されていない場所で生まれた。生まれた時からそこにいて、父は羊飼いで母も羊飼い。だからユエニファも羊飼いだった。トライトホーンと呼ばれる羊を飼育して、その肉や乳を食べ、毛皮を売って生計を立てていた。それに不満などなく近隣には村もあり周りには幼馴染などもいた。

 何不自由なくと言えばウソになるけれど、シナーナと呼ばれる長くしなる棒を持ち、羊を集めたり、放したり、放牧する生活はユエニファの性には合っていた。このままずっとこの生活が続くと思っていた。信じていた。しかしその生活はあっけなく終わりを迎えてしまう。

 賊に襲われた。教会も無いのにホロウのいない土地、羊を飼うのんびりとした生活が、豊かに見えたのかもしれない。

 父親を殺され、母親を犯され、弟と二人、ユエニファは地下に隠れ震えていた。母親は娘二人を残して死ぬわけにはいかず、自害することも抵抗することもできず、ただ犯され、その忍耐のかいもなく殺された。

 家の中に財産などあるわけもなく家は燃やされ家畜は殺され食べられ、すべてが終わったあと残ったのは燃えた土地だけだった。

 弟と二人途方にくれ、しかも近隣の村には父親の借金もあり、借金の方に土地を取られ、孤児院に入れられ弟も奪われた。

 ユエニファには二つの選択肢があった。体を売るか、冒険者になるか。

 最初は体を売る道を選ぼうと思ったけれど、ユエニファの心はあまりにも傷ついていて、娼婦は長生きするかもしれないとそう思ってしまった。それはユエニファにとって地獄だ。男に跨がれた母の姿が潜在的な嫌悪にもなっていたのもある。

 だから冒険者になるしかなかった。

 幼い子供は格好の餌食。水増しされた借金に騙されて積み重ねられた借金が募る。

 知る術もなく、社会に疎かったユエニファは冒険者として必死に仕事をこなし、それらを返していくしかなかった。だがただの羊飼いだったユエニファが冒険者としてやっていけるかと言えば否で、誰かが親切に助けてくれることなどありはしなかった。必死に一人で仕事を覚えて生きた。自分が死ねば借金は弟へ行くだろう。それだけはダメだと自分に言い聞かせて、歩いて行くしかなかった。

 ある日雪山に解熱剤の材料であるスノーリリーやスノードロップ、雪割草を取りに行く仕事を受けた。それは簡単な仕事として紹介されたはずだった。

 雪山で植物を探すのがそんな簡単なわけはなく、騙されたと気付いた時には遭難してしまっていた。

 吹雪から逃れるため雪の室を作って中で丸まり嵐が過ぎるのを待つ。このまま眠るように死んでいくのもいいかもしれない。凍えた体、低体温症、父や母の幻、残した弟への懺悔。

 唖然として過ぎた日々の中、父と母が死んだこと、弟を残し借金を弟へ背負わせる事、それらは実感となって押し寄せユエニファの心を押し潰した。

 そのまま死ぬと思っていた。だけれど目を覚ますとユエニファはまだ死んではいなかった。暗い空間の中、見知らぬ女性に抱きしめられていた。それがエルフリーデとの最初の出会いだった。

 ユエニファにはエルフリーデの年が自分とそう変わらないように思えた。

 それからユエニファは色々な事をエルフリーデから教わった。

 ここまで深刻だとはドラッベンラでも思ってはいなかった。もしかしたら自分が運命を変えたせいでユエニファの運命まで変えてしまったのではないかと見に来たエルフリーデ(ドラッベンラ)は、事の深刻さを目の当たりにする。

 残念ながらユエニファが襲われた時、ドラッベンラはまだ神と契約を成していなかった。だからユエニファの両親を守ることはできなかった。

 エルフリーデの師事の元、ユエニファは順調に成長していった。

 能力を上げ借金も返し実力を示した。もともと女神の使徒としての素養がある。さらに境遇ゆえに神々の寵愛を受ける資格がある。


 もともとユエニファはヴァーナヴィー家、ひいてはアリストリーテ・アリストリーナ王国が滅ぼした亡国の血筋である。

 ヴァーナヴィー公爵家はもともと公国であった。

 ある代の公主が通りすがりのジプシーに心を奪われる。公主はジプシーを側室に迎え、公主にはもともと公妃がおり、また長女もいたが、公主は側室との間に子供を設け、それは長男であった。

 ヴァーナヴィー公国において、近代からの跡継ぎは男児。よって側室の子であっても継ぐのは長男となった。

 側室の出身はジプシーであったが、民にも受け入れられ幸せが続くと思われた。

 公国における義務の薄い長女はやがて恋愛のすえ嫁いでいった。

 継承第一位は滞りなく。

 ただ元がジプシーであるがゆえ公主の手伝いなど公国に関する手伝いなどできるわけもなく、公妃が公主を支える必要があった。

 公妃はもともと出来た人物であったがゆえ嫌な顔一つせず、公主の手伝いをおこなった。

 一緒にいる時間が長く、公妃が出来た人物であり、また年を得るごとに美しくなったがゆえに公主はまた公妃を求めた。

 そんな二人の間に子供ができないわけもなく、計らずも生まれたのは次男であった。

 ジプシーの血を引く長男と、血統にのっとった次男。

 争いが起きないわけもなく、勃発した内乱の末、長男は次男と公妃を処刑してしまった。

 さらに問題はそれだけではなかった。公国の要、公主の証であるスカイシップ、ストームドラゴンを長男は操ることができなかったからだ。

 実は公妃こそヴェーナヴィーの正統なる後継者であり、正当なる血筋と共に公妃の母乳を受けていなかった長男にその資格はなかった。

 ヴァーナヴィーの特質上女系でなければなり得ない。ヴァーナヴィーは女性こそが公王になる家系だったのだ。だが公妃はおしとやかに育ってしまった。公妃の両親は良かれと思い公主を迎えたが、公妃は公主を主体としてしまった。

 誰が悪かったわけじゃない。側室もこんなことは望んでいなかった。しかしすべての歯車が悪い形に噛み合ってしまう。

 内乱でボロボロになったところ追いうちをかけるようにアリストリーテのハルフォニア王家が奮起した。

 今王家と争えば、ヴァーナヴィーが滅亡するのは必至、そこで長男は王家と同盟を結び、さらに嫁に出ていた長女を取り押さえ、夫や子供を殺すと脅し、長女との間に子供までもうけた。そのままヴァーナヴィーは王家を支え、アリストリーテの礎を築くことになる。


 ここで長女の家族の話、長女は夫や子供を生かすため、長男との間に子供を成した。

 だが長男は長女の元の家族が、自分の子供とまた後継争いをすることを危惧し、長女との約束を破り殺そうとした。

 その難から逃れたのがユエニファの先祖であり、さらにアリストリーテが王国として成り立つさい、周りの小国を亡ぼす必要があり、滅ぼされた小国の姫や王子がまたユエニファの先祖が暮らしていた土地へやってきた。

 ユエニファは不条理に虐げられてきた者達の末裔。

 その集大成であるユエニファには神々に愛される資格があった。

 それはありあまる不条理があったがゆえである。

 神々はユエニファの先祖より、ユエニファに至るまでを見ていた。

 さすがに神々がテコ入れするほどの不遇さ、不条理さであった。

 ユエニファ自体が歩く聖域であり効果は教会と同じ。本人はそれに気づいていない。


 神々は生まれた時から神々であった。

 そこに存在し、知り、争い、守り、穿った。

 その神々の中で、運命の存在に気づいたのはヴィーナスのみである。

 何をしようが一定の結末へと終息してしまう。この結末が揺らぐことはない。女神ヴィーナスが何をしようがこの運命を変えることはできなかった。

 ユエニファと同じ血筋を持つドラッベンラは母と同じマリアンヌという名前を付けられるはずだった。しかし、母であったマリアンヌは娘にマリアンヌと名付けたかったが、父親にドラッベンラと命名されてしまう。


 ヴィーナスはドラッベンラを見ていた。

 ドラッベンラは女神の使徒、その候補だったからだ。同じくユエニファもだ。

 ドラッベンラが使徒候補であった理由がヴァーナヴィー公爵家にある。

 ヴァーナヴィー公爵家は代々女系、そしてその公主は代々女神の使徒であった。

 ドラッベンラの母親であるマリアンヌもまた女神の使徒だった。

 初代マリアンヌは獣人、欠け耳のマリアンヌとして人と獣人との争いを閉廷させた過去を持つ。黄金の髪はマリアンヌの血筋である証。

 聖女の子供は聖女になる。このジンクスの由来はヴァーナヴィー公爵家にある。


 シタラも女神の使徒候補の一人だ。ユエニファが亡くなった時、その代わりを担う。

 しかしドラッベンラはヴィーナスが望む人間になりそうになかった。だからユエニファに白羽の矢が立った。


 同時にユエニファの家族が殺される事件が発生する。

 突如として回り始めた運命の歯車、ヴィーナスにはそれを止めることができなかった。

 候補であるユエニファに襲いかかる不条理の数々を人々に介入することのできない女神に止めることはできない。聖域は借金を帳消しにはしないし人を殺したりもしない。

 さらにドラッベンラに異変が生じる。ヴィーナスですら予測できない事態だった。

 こんな事態がなぜ生じる。理由があるとしたらそれは一つだけ、自分たちですら認知することのできない超常の存在がある。

 そして変わったドラッベンラならば女神の使徒足りえた。

 このドラッベンラならば、ユエニファと手を取り合える。

 簡易教会をドラッベンラが手にした時、ヴィーナスは待ちわびるように名前を呼ばれるのを待った。しかし、呼ばれた名前は自分ではなかった。このなんとも言えないもどかしさ、はがゆさは顔に現れ、呼ばれた夜と闇の女神がわざわざヴィーナスと契約するよう誘導するほどだった。

 おかしいでしょう。代々あなた達が崇めていたのは私ですよって話。それになのに夜と闇の女神を呼び、さらにはその秘密を暴き、ヴェーダラとすら契約を果たしてみせた。

 ドラッベンラが超常の子であると、ヴィーナスが確信した事案でもあった。

 だが結果的にヴィーナスは満足している。ユエニファは救われた。その際のドラッベンラの行動は異常ではあったしその意味を計りかねる。

 わざわざ悪役を演じ、裏で助ける意味がハテナである。

 成長したユエニファは女神の使徒となった。

 ユエニファの中には光の前に闇がある。その怒りや憎しみは深い。自らの境遇、家族を殺した賊、計画した貴族、その怒りと憎しみはあまりにも深い。

 それでもユエニファは闇を受け入れながら光であろうとした。

 だからこそ神々はユエニファを寵愛し受け入れた。

 巨大な闇を抱えながらも光であろうとするユエニファを愛した。踏まれても踏まれても歯を食いしばって耐えるユエニファを愛した。

 闇を拒絶せず、受け入れて愛したユエニファに光を見た。


 そんなユエニファですら、今回の件はあまりにも……。


 こんなにも苦しい。亡くなったとなったらいよいよ苦しくてどうにかなってしまいそうで、それは決して他人で埋めることのできない大きな穴で、エルフリーデが大切な事は理解していたのに、それ以上に思っていたことがユエニファを打ちのめしていた。

 自分をこんなにも苦しめるエルフリーデに憎しみや怒りすら覚える。

 王子に手を取られてドキドキしていた自分が馬鹿に思える。

 マルズに見つめられてドキドキしていた自分が馬鹿に見える。

 どれもこれもエルフリーデがいなければ意味がない。エルフリーデがいることで安心していた。

 そのどれもが、自分はやったよと、エルフリーデに誇れる自分でありたがったがゆえの心であったことを思い知る。

 私が何よりも愛していたのは……。何よりも愛していたのは……。

 憎い。あまりにも憎い。ただ憎悪とは違い、その憎しみは愛おしかった。

 こんな感情を抱くのは後にも先にもエルフリーデだけなのだろう。

「あんまり遅くなると、皆が心配するわ。貴方と同じ思いを他者に味合わせたくはないでしょう」

「……」

「ほらっ、迎えに来ちゃった」

 丘下から手を振って近づいてくる集団にトゥーラは目を細めた。

 自分の婚約者だった女性の死が王子に与えた影響はある。少なくとも王子はここへは来なかった。その心中を察することはできないが、ユエニファともどもあまりにショックが大き過ぎたのだろう。王子も人の子だ。人を傷つけて大丈夫なようにはできていない。確かに王子はドラッベンラを忌諱していた。だからと言って死んでほしかったわけではない。

 虐め如きでその座が揺らぐことなど本来はありえない。それでも婚約破棄せざるを得なかったのは、トゥーラの母親とヴァーナヴィー家、そしてなにより教会が関わっていたからだ。

 通常ならばイジメなどなかったと事実ごと権力により捻り潰されていただろう。

 王子はその責務ゆえ、どんなに嫌いであろうとドラッベンラと子供を作っていた。

 ユエニファが聖女として活躍しており、蘇生という偉大な奇跡を起こせるからこそ捻り潰されなかった。何より女神に愛されているというアドバンテージは大きく、後ろには教会が付いているということがどれほどの威光を示すのかは容易に想像できる。

 彼女は教会が、認めた、聖女なのだから。

 ユエニファが下級貴族やただの平民の娘だったのなら、すでにこの場にはおらず、そして誰も彼女を気に留めなかっただろう。彼女がどうなろうとも例え王子が愛していたとしても彼女は消されていた。

 そして今回ドラッベンラが暗殺されたことで王子はユエニファと婚姻することが難しくなった。ドラッベンラは腐っても公爵令嬢で次期王妃候補だった。それを破棄しあまつさえ暗殺を許し、さらにすぐ新たな婚約者など発表すれば、王子は残酷な時の人となってしまう。そしてそれは、王子がドラッベンラを暗殺したのではないかという疑惑を生むことにも繋がる。教会は潔癖主義、現教主は聖女を姉のように慕っている。

 自らの婚約者を暗殺する又は暗殺を許すような王家に聖女を嫁がせるかと言われれば否だ。

 残酷な時の人という印象は王の座から引き下ろす材料にもなる。

 裏でこっそりと婚約を破棄し、徐々に距離を置いてユエニファに挿げ替えていけばこのような事態にはならなかった。

 あまりの軽薄さにトゥーラですら眩暈を覚えた。

 ドラッベンラがいかに悪行を働こうとそれとこれとは話が別だ。

 公の場でユエニファを隣に婚約破棄などすれば、ユエニファがいるがゆえに婚約破棄をすると言っているようなものだ。

 責任は命を持って果たされる。それがこの国における王家の根幹だ。

 そんな大したことじゃなくともそれを最大限に誇張し本来受けられる利益以上を望むのがこの国における貴族のやり方、そして六大公爵の言い分を王家は無視できない。

 王子は否が応にもユエニファと距離を取らなければならなくなった。

 そしてそれは他の公爵家にとって都合が良く、聖女を手に入れやすい環境が出来たとも言える。

 皆彼女が善良であり努力家であり献身的だからこそ惹かれる。嫉妬や因縁、妬みや嫉みの渦巻く貴族社会を明るく照らす光であるのは確かで、しかしその根底にはやはり女神にもっとも愛されし者というプラス要素があることは否めない。

 ヴァーナヴィー公爵家はこれからどうなるのか、公爵家の面々、その力関係を考えると荒れた状態が続くだろう。それを抑えるのが私達跡継ぎ達の役目だともトゥーラは思うし、各後継たちとも連携を考えている。公家が崩れればそれは民の生活をも崩すことになる。

 もっともトゥーラはヴァーナヴィー家の長男には期待していない。

 母が望む通りトゥーラが王子に嫁ぐとしても、その後まで母の思い通りになるわけにはいかない。

 もしも王妃になるのならば、公爵家とは今後一切の縁を切るつもりで臨まなければならない。それは家族に対する裏切りであり、公爵家に対する裏切りでもある。

 その道はトゥーラが想像するだけでも困難な道であり、愛など得られようもない。果たして耐えられるかどうか、一人では到底無理であることが想像できてしまう。

 歴代の王妃のように他に愛する人を作るのか。甘える人を作るのか。まだ幼さの残るトゥーラの正義感でそれをするには嫌悪が勝る。

 王妃は王に比べて力を持つのが難しい。

 王妃が王妃足るには子供が必要で男児でなければならないからだ。

 そしてその子供が王となることで初めて王妃は絶大な力を持つようになる。

 母親を思わない子供などいない。その情が王妃には強く必要だ。

 年を取れば王は王妃など目にも留めない。

 側室が男児を生み、その男児が王になったのなら王妃の肩身は狭いものになる。産みの母には勝てないからだ。これらは絶対ではない。時と場合に寄るだろう。それゆえに子供を母親から離し乳母に育てさせて情を薄れさせるなんてこともする。

 王子がユエニファを娶るには時間が必要だ。

 それは王妃を娶って何年後となるだろう。おそらくその時ユエニファは二十歳を越える。ユエニファの希望をすべて叶えてあげることはできない。

 王子がユエニファを愛しているのであれば権力を使ってでも娶るだろう。他の者では拒否できなくとも教会の傘を持つユエニファには拒否することは十分にできるだろうけれど。

 民衆の前では自らの正妃と手を取り合い仲睦まじい姿を見せなければならない。

 裏では愛する人の元へ通うことになるだろう。

 今こうしてトゥーラがユエニファと仲良くしておくことは、将来ユエニファが王の子供を産んだ時、王妃として側室であるユエニファ、ひいてはその子供と仲良くするための地盤作りでもある。

 自らと王の子が生まれようものなら実家は黙っていないだろうし、王がユエニファの子供を王にしたいと思えば暗躍もするだろう。そうなった時のことを考えるとトゥーラは眩暈も覚える。とは言ってもトゥーラも人の子だ。打算ばかりで嫌にもなる。権力や財力という甘い蜜の誘惑に揺らぎそうにもなる。

 今後の事を王子やユエニファと相談したくもあるけれど、その中心である王子とユエニファの状態があまりにも……。

 自らと王が子をなしたとしても……その先にあるのは圧倒的な孤独だ。それに果たして耐えられるだろうか。

 聖女はただでさえ狙うものが多い。弱みに付け込む者達も出てくるだろう。

 ユエニファがモテすぎるのも問題だ。好きすぎるあまり、暴走する者達が出てこないとも限らない。少なくともドラッベンラが暗殺されるほどの事態はあった。

 父親たちの思惑、母親たちの思惑、王の思惑、貴族の思惑。己の立場。未知なる教会。そして神々。

 結局ユエニファは誰が好きで、どうなりたいのか。

 それを今聞くわけにもいかず……トゥーラの可愛い眉間には皺がよった。

 大きなお墓。これはドラッベンラの母親マリアンヌのもの。その隣の少し小さなお墓がドラッベンラのものだ。

 豪華だがトゥーラが供えた花以外何も添えられていないドラッベンラのお墓と、質素で端っこにあるにも関わらず、多くの花で彩られたエルフリーデのお墓。できれば後者になりたいものだとトゥーラは思う。そうなりたいと願う。


 惜しい。エルフリーデを失ったことはトゥーラにとっても心臓の半分を失うに等しい痛みを覚える。人材としてあまりにも惜しい。この国をより豊かにするだろう人間が、優しさが失われたことが、あまりにも惜しい。

 エルフリーデ。死ぬには早すぎる。あまりにも早すぎる。

 穢れを帯びてなお神聖たり続けた者。

 En plus saint(より神聖な)。Extra saint(番外なる聖女)。La pucelle(使用人)。

 心から信頼のできる人間を一人、トゥーラもまた失ったのだ。

 死体が無いのは救いなのか、それとも絶望なのか。

 まだ死んでいないと希望も持てる。

 ユエニファはすでにエルフリーデの蘇生を試みている。しかしエルフリーデが帰って来ることはなかった。女神に問うても本人がそれを望んでいないと言われた。

 ユエニファがそれに破顔したのは言うまでもない。

 このクソがって話だ。聖女がそんな言葉を口にすることはないけれど。

 私がこんなに苦しんでいるのにこんなにも思っているのにあなたは……。

 葬式が早すぎるんだよこのクソが。これはトゥーラの悪態である。

 発覚から葬式までの時間があまりにも早すぎる。前々から準備していたのだろう。これでもしドラッベンラが生きていたとしても名前を勝手に名乗っている悪党としてぶっ潰すことができる。

 ユエニファはエルフリーデを生き返らせるためにドラッベンラを生き返らせることも辞さなかった。しかしドラッベンラが生き返ることもなかった。

 誰でも生き返らせられるわけではないのかという話で、ドラッベンラはすでに新しい輪廻の輪に旅立たったと女神の神託を受けてしまった。

 トゥーラは憤りと怒りを必死に抑え込んでいた。

 喉から手が出るほどトゥーラはエルフリーデが欲しかった。

 それは愛していたからでも好きだったからというわけでもない。

 ドラッベンラは孤児など死んでも構わないと虐げていたが、エルフリーデは孤児の世話もしていた。特に年長の三人の名は冒険者という新人の中でも光り輝いている。

 ドラッベンラは常に命を狙われていた。

 トゥーラの母親が飼っていたファムファタールという闇組織からは特に命を狙われており、しかしエルフリーデはこの闇組織からの刺客を悉く返り討ち組織自体も壊滅させてしまった。これにはトゥーラの母親の面目もまる潰れた。

 母親の手の上で唯一踊らなかった人間。それがトゥーラにおけるエルフリーデの評価だ。

 トゥーラはエルフリーデを何時も見ていた。

 これほどの人材、他にいない。

 喉から手が出るほどトゥーラはエルフリーデが欲しかった。

 それは今でも変わらない。

 子を成して用のなくなった自分のその後を考える。その隣にエルフリーデがいればそれがどれだけ心強いか。そう思わずにはいられない。

 全てを自分の思い通りに動かすには幼すぎるとトゥーラはため息を押し殺した。

 政敵が多すぎる。もっとも厄介な敵が母親である事に、トゥーラの口からは押し殺したはずのため息が漏れてしまった。

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