新機軸・夢の機械

和菓子辞典

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 脳科学が最もファンタジックな方向で進化したなら、VRMMO、五感で没入できる仮想空間を実現することだろう。しかし俺が思うに、まず作られる空間は異世界ではない。現実の再現であるはずだ。

 それは、存在しない世界を作り出すコスト面の問題のみから言うのではない。現実的な利用方法が多岐にわたること、これも大いにあるだろう。だが最も言及したいこととして、人が求めるものの正体は現実にある。あらゆる欲求不満は常に、別世界ではなく、惨めでない現実を求めている。

 俺は、そう考えられる自分について驕っていた。

 だが俺の友人、同僚、稀代の神経学者、熊井友樹は言った。


「ただの幸せな夢が、人を過去に縛り付けてくれるのかな」


 こんな俺がこいつを殺すなら、きっと世間の見方は一通りだろう。






「熊井。お前の言うとおりだよ。ただの幸せな夢は人を過去に縛り付けてくれない」


 もしかしたら死んでいるかもしれない熊井を、踵で踏みつければ血だまりが広がる。助からないだろう。

 俺はまだこいつに語らねばならない。俺はこの男の中で、わかっていないままの人間で、終わりたくないのだ。


「変化してしまった自我は、過去の記憶に対して別の感情を抱くだろう。誰も青年期を痛みなく思い出せはしない。現在に在る心で過去に囚われる。

 だがお前の開発したそれは、違う」

「おまえの、じゃない。一緒に……つくったろ」

「……生きてたのか」


 銃創を踏んだ。熊井は瀕死にしてはよく呻いた。もうたくさんだ。俺は天才への嫉妬に狂った、サリエリの類いとして嗤われるだろう。

 それでも俺を俺だけは信じてやればいいなんて、信じ続けられるだろうか? 心は続くだろうか。まあ、無理なんだろう。


「回想される当時の、その感覚、思考……そして感情。これらすら記録し、装着者の脳に再現させる。

 そのようなものは存在すべきではない。完全に自我を支配し、過去に引き戻す装置など、人類には早すぎる」

「はや、し」

「……性善説に囚われるな。人は弱い。逃げる。現代の加速度的な衰退を後押しするだけだ。あるいは、格差の空虚な是正に利用されるだろう」

「僕が、これを作った理由……それは今、まさに、君が示しているよ」

「何が言いたい」

「やっぱり、大事な気持ちならずっと覚えていられるなんて……嘘なんだ」


 3発撃った。

 ……いつもそうだ。こいつは見透かしたような事を言う。思考の口調すら読み取るようなことを、平気で言う。いつもそうだった。


 俺はひとまず死体を蹴転がし、さてどれだけ厳かに出頭しようか、考え出した。道すがらにコーヒー缶一杯どうだろう。渋い犯罪者である気がした。結局俺は、下を向いて惨めに社会を憎む狂気の犯罪者にはなりたくないのだ。どこか、冷静で決定的な意志を社会に見られたい。むしろ俺こそが正気で、所謂一般人こそ衆愚なのではないのかと。


「……くだらん」


 卓の端に左腕を立てた。熊井の仕事机だった。

 途端に見る気になって、一番手に近い紙を小指で引き寄せた。その怠慢のせいでそれは斜めに引き寄せられ、掌底で向きを正してやると「チリ」と少し破れた。


 読んでなるほど、俺はまさしくサリエリらしいと悟った。


 少なくとも俺が把握していた限りにおいて……この技術は単純な録画だった。これから喜ばしいことが起こるというとき、例えば結婚式があるならばその直前、あらかじめ装置を起動しておくものだ。もし喜びが不意に人を襲ったなら、むろん録画ボタンを押していないのだから、記録することは出来ない。

 ……いやまったく、こんなことを隠していたのか。熊井にはもうそれは諦めろと言っていたのに。ひとまず予算が必要だ、そのためにまずは確実な成果を上げようと俺は言った。でもこいつは一人で諦めなかった。俺はいよいよ、こいつと双璧を成したことなどなかった。


 凡人よ見るがいい、これが、人の海馬にアクセスする技術だ。保存されている脳の記憶なら、どれほど過去でも読み取れる。しかもその記憶、その保持者の脳内だけでなく、まったく他人の脳でも再現出来るらしい。

 しかも記録媒体はUSB? 16GB程度の、安いUSB?

 PCで情報を補完するソフトも開発済みとかなんとか、ああだめだ、この先の内容、俺の頭じゃ。


「ああ」


 ああ、はは、この男、わかったよ、天才だ。


 魔が差したんだろう。俺は、引き出しを乱暴に引いた。案の定、無用心なUSBが見つかった。






【記録を再生します】






 ここはどこだ?


「熊井。おい。熊井」


 俺の声か?


「ぼーっとしおって――試験中に寝るなよ」


 胸にどくんと、不安がしこる。

 熊井はあの時、んー、と呆けるだけだったはずだ。

 知らなかった。こいつ人間だったのか。


 目が回る。


「熊井。死者は還らない」


 熊井が付き合っていた女の葬式だ。たしか三室といった。

 急速に絶望していく――やめろ――やはりこんな装置は危うい。


「だが禁忌ではない。不老不死、蘇生の禁忌など、望むことを恐れた先人の逃避にすぎない。科学者はそれを打破するべきだ……あるいは、前提を覆す。俺たちはこのような世界に身を置く必要はない。肉体の制約こそ諸悪の根源なのだ」


 意志が光る――暗い意志が――そうだった、すべて俺がはじめた。


 目が回る。


「……ああ、よかったな。完成だ。これで間違いなく、ひとまずの予算が下りる」


 ひとまずという言葉に胸が焼ける。

 すべて、俺か?


 目が回る。


「ふむ、君が熊井友樹か」


 これはずっと前のことだ。


 俺より優れたものを知らなかった俺が、俺などよりよほど優れたものを知るまさにその時だ。世界観が崩壊する瞬間だ。

 俺は天才然とした天才など信じていなかった。真の才子とは、己の使い方を心得、このように廃れた格好をしているはずがない。取り柄もない不格好なものが、アーティストぶった馬鹿が、それを言うだけだ。


「俺と勝負をしろ」


 胸が躍った。撃ち抜いた熊井の胸に血が沸きたった。


 すべて蘇る――初志、決意、安寧、怒り、憎悪――なんだ、お前も俺のことは嫌いだったのか。






【終了します】






「……」


 俺はこめかみに銃口を立てた。あと1、2発残っているはずだ。

 ……危険だ。他人の感情すらこれほど容易に再現でき、知ることのできる技術はだめだ。人は通じ合えば通じ合うだけ争うものだ。熊井は性善説に囚われていたんだ。


 そんな技術が、さきほど俺の脳内で再生された。


 俺がなにもかも覚えていなかったことなど、その滑稽さなど、義を通すためには関係のないことだ。熊井は囚われていた。


「またやりたいな……熊井」


 気が狂う前に。






 ……そんな夢を見た。もうすべておぼろげだ。

 そして今日も俺は、着替え、飯を食い、歯を磨き、荷物を持ち、徒歩圏内にある研究所の玄関にそいつの影を見る。


 熊井友樹。

 不格好な男だ。襟が黄ばんでいる。もう誰も愛していないのだろう。


「おはよう熊井。今日も不潔だな」

「ああおはよう。……林、明日はビリヤードに行こう」

「そんな暇はない。発表まであと何日かわかっているのか」

「遊びたいんだよ」

「それで何度、夜を徹したと思っている」

「別にいいじゃないか……」

「俺はお前と違いコンディションに気を払っている」

「でもなんとかしてきたよ……はー、やー、しー」

「揺らすな」


 こんな俺がこいつを殺すなら……きっと世間の見方は一通りだろう。


「熊井」

「はい、なんだい」

「俺をうまく使え。俺もお前をうまく使う」

「そうだねぇ、お互い頑張りましょってことで」


 そのとき熊井は珍しく、こんな、大仰なことを口にした。


「目指せ、新世界!」

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