第三話 ドクター奈良野の一日
目覚し時計が同時に鳴った。離れた部屋で別々に。
目覚めた奈良野医師は、意識を二つに裂かれたような気がした。上体を起して少しの間、ベッドの端に腰かけ、耳を傾けてみるが、ふた
気味が悪い。電波時計は考えものだ。もっとも、今朝5時すぎまで記録に没頭していても、昼からの手術に障るのではないかと余計な思いに煩わされることなく熟睡できたのはそのおかげではあるのだが。
顔を
卒なく入念に肘下を浄め、手袋をはめ、深々とマスクを付けると、スタッフたちと目だけで会釈し合ってドクター奈良野はメスを入れる。体を開くと胆嚢が現れ、医者の手首と指先が、厳かな、測ったように精確な動きで病変の処置を進めて行った。殆ど出血もなく、予定通りに手術が終る。
三十代の男性患者の体をストレッチャーに戻す際、背中に生えた小さな天使風の二枚の
休憩所には何人もの職員がたむろしている。
カウンターの棚をのぞくが今日に限っていつものダージリンのティーパックが切れていた。緑茶に手を伸ばしかけた奈良野医師はその隣に生姜湯のスティックが立っているのにふと目をとめた。初めて見る。違和感はあったが何となく試してみようという気になった。安物のコーヒーよりはましだろう。人だまりを避けて中庭の見える明るい窓際のテーブルにつく。ソファーは低反発の流儀で、医者の背を深々と受けとめた。
ひと口含んでみる。意外にいける。たまには生姜湯も悪くないものだ。体の奥から空気を全て吐き出すと、氏はポケットのスマートフォン型音楽端末を取り出して、7万円以上するイヤホンを両耳に挿し入れた。幾年か前までは真空管アンプへの未練を捨てきれずにいた奈良野医師だが、ここの所、デジタル機器の録音再生技術の向上を認めざるを得なくなってきている。手術後、自身では気付けない疲れと緊張の残滓を掃き浄め、次の務めに向けて、心の足場を軽く整えておくためにバッハを聴くのがドクター奈良野のいつもの習慣だ。平均律や組曲から選んだチェンバロ曲を、得心の行く配列に編んである。呼び出した画面のボタンを指で押す。
だが … 、奈良野氏の知らない曲が流れ始めた。一瞬意表をつかれたがすぐに気が付く。指が
午後三時、先ほどの患者の家族への説明のために来談室へ赴く。入って来た男は、二時間前に腹を開けた患者とそっくりだった。一卵性双生児の弟だと言う。改めて手術の成功と予後について楽観していることを告げたのに、相手は浮かぬ気だった。
「何か気にかかることでも?」
氏の問いに、「いや」と、男は答える。
「胆嚢のことは、お伺いした通り、大丈夫なのだろうと思います。ただ、彼と私の先行きの事が心配で … 」
「先行き、とは?」
「この先、我々に何が待ち受けているのか不安なのです」
「 … 」
「我々兄弟はこれまで常に一心同体でした。顔も同じなら趣味も同じ、目覚める時間も風邪をひく日も同じ、同じ一卵性姉妹を好きになり、遠く離れた場所にいても同じ時刻に同じ夢を見ます。彼の前を燕が横切れば、私の前でも燕が横切り、同じ数だけ蚊に刺され、同じ政党を支持して来ました。けれど先日、ふたりで山歩きに出かけたとき、彼はつまずき、何かが狂ったのです」
男はポケットから小石を一つ取り出して見せた。
「この石くれが全てを変えてしまいました。翌日、彼は突然、腹痛を訴えてここに入院したんです。私の腹は痛くなかったのに。そして今や、ひとりは完全な胆嚢を持ち、ひとりは一部を失う体になりました。この先どうなって行くのかたまらなく不安です」
「 … 」
「いえ、ただそれだけの話ですので、これ以上お聞き頂いてもご迷惑なだけでしょう」
男は話を打ち切り、立ち上って出て行こうとした。
「飛ぶのかね?」
医者が後から声をかける。
「?」
「あなたにも翅があるのでしょう?」
「えぇ、人目のない場所と時間を選んで時々飛んでみることがありましたよ。むろんその時刻には、彼もどこかを飛んでいたはずです。ですが、これからはひとりです。そのうち、墜落して命を落しそうな気がします」
喫茶店では約束通り知り合いのバイオ技術者が待っていた。クローン関連企業の民間研究員の彼から、医者を辞めて転職しないかと誘いを受けている。相手はコーヒーを注文し、ドクター奈良野は何も注文せずに冷たい水だけを飲んだ。胸が悪い。多分、先ほどの生姜湯のせいだろう。
「クローンの個体間にも当然誤差があるのだろう?」 ― 氏はあの患者たちの顔を思い浮べて言う ― 「一卵性双生児でも指紋は違うという意味でのぶれが?」
「もちろん、ある」
「だが、原子や素粒子の場合はどうだろう」
とうの昔に考えるのをやめてしまったはずの青臭い疑問がふと口をついて出る。
「ある水素原子と別の水素原子の差はなんだろう」
「原子や量子に違いなんかないさ。彼らは完全に同じものだ。ただ別の場所と時間に存在している差しかない」
早い日暮れ、我に返ると、わき道から通りに出るコンビニ横のT字路の赤信号で右足がブレーキを踏んでいた。どうしていたのだろう。居眠りしていた訳でも思いに耽っていた訳でもない。だが、花火工場の角を曲ってからここに来るまでの二十秒余りの帰り路をどう運転してきたのか全く思い出せない。通って来た散髪屋の見たはずの回転灯を覚えていない。記憶の抜け落ちたまま運転している間、世界はそれでも自分とは関わりなく動いていたのだろうか。
ウィンカーレバーを上げようか、下げようか?通りは右から左へ下っている。どちらへ行っても自宅までは大差ない道のりで、どちらがどうということもない。この何日か、左折していた奈良野医師はハンドルを上流の薄闇に切って走り出した。
途中ふと、だいぶ以前から気にしていながらのぞく機会のなかったちっぽけな釣具屋に立ち寄ることにする。シャッターは開けられていたのに、狭い店内に
店員の姿を捜して奥のカーテンをのぞくと小さな降り口が現れ、階段が続いている。底は真っ暗だ。なぜ地下室など?薄明かりを頼りに狭い階段を降りて行く。奈良野医師の鼻腔をいやな臭いが侵してきた。
奈良野氏が勝手に入り込んでいるのを目にしても、女は無言のまま表に向き直り、もう一度、力まかせに荷物の綱をたぐり込む。
女は傍らの丸椅子に腰かけ、ひと息いれる。
「新型
ゴム長を脱ぐと短く太すぎる足だ。
「こう見えて、店をやって行くのも楽じゃない」
とがった口でうそぶくと、女は向うの隅の小卓に置かれたガラスの菓子皿を片目で見遣り、二メートルほど舌をのばして、中からナッツをつまみ取った。
「電気を節約してるのさ」
誰に言うともなくそう付け足す。
「不便でも、契約上あと半年は他の電力会社に乗り換えられないし」
それだけ言うと裸足のままやにわに立ち上り、客の姿など完全に無視して、箒を手に取り、辺りを掃除しはじめた。
隙を見計らい、氏は退散して早々に車を出す。
馬鹿気ている。
去り際にもう一度ミラーをのぞくと、女はまだ奥を片付けていて、ゴミをすくいとる際、丸椅子に当った尻尾のような影が素早く体の後に隠れて行った。
すっかり日が落ちた。カーラジオを入れてみる。軽音楽を破って、アナウンサーの声が何かを告げている。
「速報です。政府は先ほど、米中両国が交戦状態に入ったと発表しました。ワシントン、ニューヨーク、北京など、幾つかの主要都市がすでに核による壊滅的打撃を被っている模様です 」
家に戻ると、奈良野氏は真っ先に書斎に向い、目覚し時計を取り上げて水に沈めた。寝室の一台で充分だ。
それから夕食の支度にかかる。卵かけご飯に納豆とみそ汁、あとは蒸し野菜があれば良い。箸を握った拍子に、明るくくぼんだ皿の端からブロッコリーがひと切れころんと跳ね出して、ガラス鉢の水中にとび込み、金魚に寄り添った。
不条理な一日だ … 奈良野氏は軽く首を振る。こういう晩にはひたすら定めに従うことだ。
裏、裏、表 …
猫を連れて
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