第二話 証拠
その朝、T氏はどん底の気分で家を出た。この世界のどこにもT氏の居場所はなく、部屋の隅にうずくまっていることにもいたたまれなくなって、小雨のなか、あてもなく車に乗り込んだ。
そのまま、これまで一度も通ったことのない近所の道へ入って行った。T氏はすぐに迷子になり、奇妙な安堵感から、一時間かそこらの間、見慣れぬ景色に吸い込まれるように、でたらめに、道を辿り続けた。
やがて一軒のさびれたガソリンスタンドが現れ、T氏は車を停めた。そこでは何かのキャンペーンをしていて、給油を終えると中年の男の店員が、黒いさらの雨傘を一本、無言でT氏に手渡した。
T氏は車をそこに預けておいて、もらったばかりのその傘を差し、辺りのあぜ道や空き地を暫しさすらい続けて行った …
次の日、雨はあがり、生気を取り戻したT氏は寝床から抜け出して玄関に出た。だが朝陽の射し込むあがり
今朝のT氏には、昨日の出来事はすでに一種の夢だった。本当にあったのかさえ疑わしくなりそうな、遠く離れた過去だった。
だから傘はあるべきではないのだ。在ってはならぬのだ。
だが、どうだ、あるべき場所に立つ傘の、この紛れもない生々しさは。
過去が現実であるとは、何と怖ろしいことだろう。
もしきのう、T氏がハンドルを切り損ねていたら、この今朝は来ていないのだ。たとえT氏から忘れ去られても、傘は置かれたその場所に、寸分たがわず存在し続けるものなのだ。
このところ、ガソリンスタンドの景品もティッシュボックスばかりになってきて、おかげであの朝以来、T氏が裁かれることはなくなった。
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