ニ短調のカルテ
友未 哲俊
第一話 光本氏の余白
幼稚園に入る前からそうだった。
こうした独特な個性にもかかわらず、彼は意外にも気難しい偏屈者ではないらしい。たとえば氏の未完成画には当然、有象無象の手になるありとあらゆる完成バージョンやパロディーが引っ切りなしに世に現れて来たが、こうした二次絵画に対して、彼は驚くほど
ただ、そのアトリエ付きの
だが、ここ最近、光本氏は何だか
「精密検査をお受けになって」
心配した細君の勧めで、最先端医療で名高い市内の総合病院へ十余年ぶりの受診に向かう。シナモンエキスの摂りすぎかもしれない、と光本氏は考えた。彼は、氏の知る限り国内ではその一種類しか手に入らない液状シナモンを、ハーブがわりに数滴ずつ飲み物に加えて
だが、検査の結果ははるかに深刻なもので、大脳辺縁系の海馬の部分にぽっかりと謎の空洞があるという。命の危険があるのかと光本氏が尋ねても、誰もそんな症例を知る医者はない。だがそのまま放置しておく訳にもいかず、取り敢えずシリコンを注入して空洞を埋めてしまおうということになり、無理やり入院させられた。結果、埋め立てるだけの手術は成功したものの、退院後、光本氏はすっかり人が変ってしまった。
最大の変化は、氏が作品を完成させるようになってしまったことだ。しまった、と言って良いものかどうかは微妙な所で、光本氏の絵は以前にも増して偉大だった。描き残しなく完成された分、さらに偉大さが増したと考えるのが普通だし、事実、手術前の作品以上に、復帰後の作品は人気を博している。しかも光本氏の創作ペースは以前より格段に速くなり、次から次へと生み出され続ける傑作群が一つ残らず飛ぶように売れて行ったので、彼の手元には見る間に巨万の富が築かれて行くことになった。それというのも、手術で頭の隙間を埋めたあと、それと入れ替わるように、光本氏の心にはぽっかりと得体の知れない穴が空き、それを埋めるには常にキャンバスに向かって何かを描き続けるより他に術がなかったのである。しかもそれだけでは光本氏の空白はどうにも満たされず、彼は次第に女色に溺れて行きはじめた。女の裸体など、それまでは単なるヌード素材に過ぎなかったものが、今や、より若くてしなやかな肢体のモデルを手当たり次第に漁って来てはアトリエに招き入れる。古くからの顔なじみや友人の中には暗にそのことをほのめかして細君に注意を促す者も少なくなかったが、細君はただ苦笑して
ある朝、台所をのぞいた光本氏は、細君が、温めた牛乳にいつもとは違う小壜からシナモンらしい液体を数滴混ぜているのを見かけた。
「それは何?」
「新しく出たシナモン液よ」
こうして光本氏はきょうも絵を描き、モデルを招き、細君は一本脚の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます