ニ短調のカルテ

友未 哲俊

第一話 光本氏の余白

 幼稚園に入る前からそうだった。光本みつもと氏は凡そ自分のいた絵を完成させたためしがない。三歳の時に描いたアリは背中に色とりどりの美味しそうな宝物を山ほど積んでいたのに脚が1本しかなかったし、「先生」と呼ばれる巨匠になってから描いた有名なのヌード絵にしても、モデルの細君の左の乳房はキャンバスが地肌のままで放置されている。みんなはその塗り残しを歓ぶのだが、光本氏のき残しは、線描画や俳句の余白の美や背後世界の広がりとは異質のもので、言うなれば未完成交響曲やブルックナーの九番同様、完成されていないという事実以上の美学的意味のないものだった。完成直前の大クライマックスの頂点でと途切れ果てる点では「フーガの技法」の終結の大フーガに最も近い。なぜ完成させないのかと皆に問われても、氏は「私が光本だから」と極めて誠実に受け答えるばかりだった。だがそれでも、実際に描かれている部分があまりにも秀逸なため、才能の不足をき残しで誤魔化しているとか、奇を衒っているだけだとは誰にも言えなかったのだ。

 こうした独特な個性にもかかわらず、彼は意外にも気難しい偏屈者ではないらしい。たとえば氏の未完成画には当然、有象無象の手になるありとあらゆる完成バージョンやパロディーが引っ切りなしに世に現れて来たが、こうした二次絵画に対して、彼は驚くほど鷹揚おうようで、自分が損害を被らない限りはことごとく黙認し続けているという。そんな二次絵画が時に大変な高値を呼び、大きな人気を博したりしても、氏自身は気にするどころか、結構面白がっている節さえあるという。光本氏のアトリエは彼自身の買い求めた二次コレクションで一杯だという噂まであった。

 ただ、そのアトリエ付きの住居すまいの風呂場には天井がなく、わざと作り残されていたのだから、やはり奇人であるには違いない。夏場はもちろん、吹きすさこがらしや吹雪の下でも、光本氏は知り合いの建築家に特注して作らせたその吹きさらしの未完成風呂で震えながら身をみそぐのだった。外壁だけはあっても、隣家の18と16になる姉妹が二階の出窓を開けた拍子に見たくもない男の裸を目にして役所に苦情を申し立てる怖れは十分にあった。

 だが、ここ最近、光本氏は何だか目眩めまいがひどい。こんの詰め過ぎかと、しばらく休んでみても一向に収まらない。日に日に酷くなってきて、遂に座っていても世界がぐるぐる回って絵筆を取れなくなってしまった。

「精密検査をお受けになって」

 心配した細君の勧めで、最先端医療で名高い市内の総合病院へ十余年ぶりの受診に向かう。シナモンエキスの摂りすぎかもしれない、と光本氏は考えた。彼は、氏の知る限り国内ではその一種類しか手に入らない液状シナモンを、ハーブがわりに数滴ずつ飲み物に加えてたしなむのを長年の習慣にしてきた。朝の紅茶にも、昼食後のコーヒーにも、三時のお茶にも、深夜のワインにも、あらゆる飲料にシナモンを加えて飲む。桂皮は体にも良いと聞いていたが、少し控えるべきだろうか。

 だが、検査の結果ははるかに深刻なもので、大脳辺縁系の海馬の部分にぽっかりと謎の空洞があるという。命の危険があるのかと光本氏が尋ねても、誰もそんな症例を知る医者はない。だがそのまま放置しておく訳にもいかず、取り敢えずシリコンを注入して空洞を埋めてしまおうということになり、無理やり入院させられた。結果、埋め立てるだけの手術は成功したものの、退院後、光本氏はすっかり人が変ってしまった。

 最大の変化は、氏が作品を完成させるようになってしまったことだ。しまった、と言って良いものかどうかは微妙な所で、光本氏の絵は以前にも増して偉大だった。描き残しなく完成された分、さらに偉大さが増したと考えるのが普通だし、事実、手術前の作品以上に、復帰後の作品は人気を博している。しかも光本氏の創作ペースは以前より格段に速くなり、次から次へと生み出され続ける傑作群が一つ残らず飛ぶように売れて行ったので、彼の手元には見る間に巨万の富が築かれて行くことになった。それというのも、手術で頭の隙間を埋めたあと、それと入れ替わるように、光本氏の心にはぽっかりと得体の知れない穴が空き、それを埋めるには常にキャンバスに向かって何かを描き続けるより他に術がなかったのである。しかもそれだけでは光本氏の空白はどうにも満たされず、彼は次第に女色に溺れて行きはじめた。女の裸体など、それまでは単なるヌード素材に過ぎなかったものが、今や、より若くてしなやかな肢体のモデルを手当たり次第に漁って来てはアトリエに招き入れる。古くからの顔なじみや友人の中には暗にそのことをほのめかして細君に注意を促す者も少なくなかったが、細君はただ苦笑してかぶりを振って見せるだけだった。


 ある朝、台所をのぞいた光本氏は、細君が、温めた牛乳にいつもとは違う小壜からシナモンらしい液体を数滴混ぜているのを見かけた。

「それは何?」

「新しく出たシナモン液よ」

 こうして光本氏はきょうも絵を描き、モデルを招き、細君は一本脚のつたないアリの絵の掛かったキッチンで食事を作り続ける。風呂場には一仕事終えた後のモデルたちのためにきちんと屋根が設けられ、隣家の娘たちもこれで好きな時に安心して出窓を開くことができるだろう。

 

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