海に埋まる

USHIかく

海に埋まる

 ――全てが、沈んでゆく。


 夕空の緋色は薄暗い浜辺に輝き、海の潮風が柔肌を撫ぜる。

 真昼の猛暑とは様変わりし、涼しいそよ風は顔にあたり目を少しすくめさせた。

 照らす灯りもほぼなく、若者の声が遠くから空に乗る。

 海の潮は静かに押しては引くが、靴に入る海水を眺めると、その様相はまるで轟々と砂に引き摺られる錯覚すら覚えさせた。


 揚々とアコースティックギターを掻き鳴らし、下手な邦楽を奏でる若い男たち。さらに遠くには、やんちゃな集団がスピーカーに低音が響く音楽をかけ、男女問わずけたたましく騒いでいる。夕暮れも過ぎたが、公園の街灯のかすかな光は瞳に淡い視界をもたらす。


 ――全てが、沈んでゆく。


 更に浜辺を歩いて行く。制服姿の女子高生が、騒ぎ立てながら海辺を裸足で歩いてゆく。また、穏やかなカップルがベンチに腰を掛け遠くを眺めていた。少し先には未だ商機を狙う屋台が数台並んでいる。『氷』の旗がまた少女の影に隠れた。

 波も立ってきているが、暗い空の下も人はそれなりにいる。だが、己の周りだけはやけに静かで、人気もないように感じられた。

 脱ぎ捨てた泥だらけのサンダル。それがまた踏まれ蹴飛ばされるところは、まるで自分を見ているようだった。


 また歩を進めようとしたとき……足裏に妙な感覚が走った。これはかすかな痛覚だろうか。硝子を踏んでしまったようだ。足裏を曲げて覗いてみると、血が流れていた。裸足で砂浜を歩いてはいけないと沢山の看板に書いてあったのも納得だ。仄かに血の匂いが空気に乗ったと思ったら、また押し寄せる波の潮の匂いに包まれ、消されてしまった。


「――おじさん、だいじょぶー?」

 ふと、後ろから声がした。幼い少女が下から表情を覗き込む。小学校低学年くらいだろうか。

 ――おじさん、か……。

「血ー出てるよー。ばんそうこう、はってあげる?」

 優しい子だ。

「待っててね、ばんそうこう、持ってくるね」

 ……大丈夫だ、と押し止めようとしたが、その子は走り出して行ってしまった。あんな優しい心の子もいたのだな……と、薄い罪悪感が却って心に面白さを沸かせる。

 しかし、絆創膏を取りに行った女の子は帰ってこなかった。向かった先には優しい顔つきにはとても見えない女性……母親か。そのそばにいたのは人柄が悪そうな男性。浮気相手だろうか……と勘繰ってしまう己が憎い。そのまま強引に母親らしき人物に手を引っ張られて、海辺から去って行った。抵抗しながらも、最後は諦めて、こちらに手を振った。

 打ち上げ花火の音がする。空を登っていき、そのまま弱い爆発音をあげる。


 私は、どこで間違ってしまったのだろう。彼ら、彼女らのような生活に本当は憧れていた。そのはずであった。だが、僻みはそれを切り捨て見下した。最後には独り、空虚のまま取り残された。ただ、人生を楽しいと、一瞬でも思いたかった。私は前から負けていたのだろうか。……風と潮は、地平線のその先まで思考を染め上げていく。

 優しい子供もいる。優しい人もいる。そうなのかもしれない。だが、真夏の夕暮れは心を癒すには足りなかった。

 その優しい手も、またいびつな人間に引っ張られ、世界がくずおれていく。

 涼しい風が顔に吹き付け、冷たい水が足を覆う。


 ――全てが、沈んでゆく。


 海水が膝下を濡らす。腰が冷水に埋まる。肺を埋め始める塩水は、悲壮感が胸を埋め尽くし始めるようだった。

 私は間違っていなかった。もう、立ち止まるまい。

 人生の回廊が滞りなく流れる。感心しながら、頭頂部まで埋まった海水は、騒ぎ立てる血を塞ぎ立て、滂沱に流れる涙すら掻き消す。

 魚が見える。虫が騒ぐ。人が踊る。海月が舞う。月が沈む。水が消える。

 命は溺れる。

 海が呼んでいる。


 ――全てが、沈んでゆく。

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