第6話 世界が広がった日



 その日は寒い冬の日だった。だけどその時、俺の心はポカポカと、いやギラギラと燃えていた。その日は生まれて初めてのバイク“NS1”納車の日だった。小学生の頃からずっとバイクに憧れていた。メカが好きで捻くれ者で自由を求めてる。そんなクソガキだった俺にとって、バイクというのは心を躍らせるどころか、自分をどこかキラキラとした場所に連れてってくれる、王子様みたいなものに見えていた。俺は姫か。


 とにかく、その日は俺の憧れに憧れていたバイクライフが始まるその日だった。真冬の放課後。待ち切れずソワソワとした俺は家の前でそれをずっとウロウロしながら待っていた。自慢したくて友達も呼んだ。


『早く、早く来ないかな』


 俺の心はもうそれでいっぱいだった。


 ブロロロ、そしてそれは現れる。バイク屋さんのトラックが来た。そこから降ろされたのは黒い外装にレーシングな紫の模様が入ったNS1。アッパーカウルは外されて、普通のバイクみたいな丸目のヘッドライトが付けられていて、バイクは不良っぽい方が好きな俺の心をさらに躍らせる。


『早く、早く乗りたい、道路をぶっ飛ばしてみたい』


 心の中からはずっとそんな言葉が溢れ出していて、バイク屋のおっちゃんがせっかくしてくれてる操作の説明も半分くらいしか入ってこない。


 おっちゃんに見守られながら俺は早速、NS1に跨る。


 そしてキックを何度か蹴ると、あっさりとエンジンはかかる。軽やかで心地のいいツーサイクルエンジンのアイドリングに、心は最高潮に昂っていく。アクセルを捻ってみるとエンジンからは「ブィーン」という心地よい排気音。


 俺はそのままクラッチを握りシフトペダルを恐る恐る、つま先でかちりと踏み込む。ニュートラルランプが消えて、クラッチを離せばバイクが走り出すことを教えてくれる。


 ドキドキする。


 俺は心臓の鼓動に逆らうように、アクセルをゆっくりと捻りながらクラッチを握る左手をゆっくりと話す。


 ガチャプスン。


 エンストした。今ならわかるが、非力な50ccのエンジンでの発進は中型バイクのそれより難しいのだ。心が焦る。『もっとアクセルを、いやでも加速し過ぎて吹っ飛ばないかな』そんな心配を悟られないよう、無言でもう一度再チャレンジ。


 ブィン、ブブ、……ブィーーーン。


 進んだ。初めて、俺はその時、生まれて初めてクラッチ付きのバイクで前に進んだ。バイクオタクだった俺は、インターネットで調べたりしてバイクの構造とかを知識としては知っていたけど、こうやってちゃんとクラッチが駆動を伝えてくれてることに驚いてしまう。


 アクセルを戻してクラッチを握り、ギアを2速に入れてまたアクセルを捻る。


 ブィーーー。


 エンジンは音程を下げて、だけど速度を上げながらまたバイクを前に進ませる。


 ハンドルから身体に伝わってくる加速度は力強くて、気分は無敵になる。ギアを3速に入れる。


 ブィーーー。


 景色の流れはさらに早く。夕暮れの、街灯はまだ着き始めていない1日の中で1番おとなしい景色。だけどその何の変哲もない大人しい住宅街が、キラキラと輝き始める。


 『止まれ』の標識で一度止まり、左右を確認してもう一度発進する。ツーサイクルエンジンの排気音と流れゆく街の景色がその時、カチリと噛み合った。


 世界はその時物語に代わって、スピードが冒険に変わって、俺は主人公になった。

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