第14話『≒』
新しい会社での仕事は特に問題も無く、順調にこなしている。他の社員さんとも適度にコミュニケーションを取っているし、前の会社と違ってちゃんと残業もしているので、この調子だと試用期間でクビ切られることも無さそうだな。
でもまぁ、油断はするまい。自分では何も問題無いと思っていても、上の評価は違うということもありえるし。
今日も朝から、ひたすらコーディング。一体いつになったら終わることやら。延々と写経をしている気分になる。それでも、皆んなで地道に作業を進めて、確実に成果は上がっている。この調子でプロジェクト完遂まで頑張ろう。
「玖珂沼さん、調子はどうですか?」
不意に、浦沢さんから声をかけられた。
「はい、順調です。地道な作業は慣れていますから」
作るものは全然違っていても、工場のライン作業を経験している私から見れば、こういう仕事はお手の物だ。皆んなで協力して一つのものを作り上げる。形こそ違えど、根本的な部分は一緒だと思う。
「良いですね。その調子で頑張って下さい」
浦沢さんはそう言って、自分の席に戻っていく。何でか知らんけど、この会社では『社長』と呼ばずに、皆んな『浦沢さん』と名前で呼んでいる。まだ若いから、社長という肩書きに馴染めないとかか?まぁ、名前で呼んだ方が親しみやすいから良いとは思うけどさ。
そして、入社してから3ヶ月が過ぎた。途中でクビになることも無く、無事に試用期間を終えて正社員にしてもらえた。念願だった正社員待遇!本当に苦労したけど、諦めずに頑張って良かったなぁ~。既に生活保護も抜けていて、これで私も、どこに出しても恥ずかしくない、立派な社会人になれた訳だ。
正社員に昇格が決まった日は、風香と二人で細やかなお祝いもした。風香はよく分かっていないみたいだったけど、私が喜んでいることだけはちゃんと理解してくれたようだった。風香、ママやったよ!給料はまだ安いけど、やりたい仕事で正社員になれたんだから問題無い。この世に奇跡も魔法も存在しないけど、努力はちゃんと報われるんだ!
入社当初に手掛けていたプロジェクトも、その後無事に終了しており、今は新しいプロジェクトに入っている。役割としてはまだコーダーレベルなんだけど、ちゃんとWeb系の仕事に就けているってのは嬉しいな~。
天国の緒方さんは、私のことを褒めてくれるだろうか…?こうして目標通り、Web系の仕事でちゃんと正社員になれたんだから、きっと緒方さんも喜んでくれるに違いない。ちゃんと努力が報われたんだから、これはとても良いことじゃないか。
「幸子さん、画像素材の修整もお願い出来ますか?共有フォルダにzipで置いてますんで」
「はい、大丈夫です」
とりあえず、頼まれれば何でもやる。細かい作業も手間のかかる作業も何でも来いだ。人間万事、地道にコツコツ。こう言うと、パチンコの甘デジでチマチマ出玉を稼いでいるみたいだな。
ちなみに、もうすっかりこの会社の人達には馴染んでいて、浦沢さん以外の皆んなからは『幸子さん』と呼ばれている。ちょっと恥ずかしいけど、親しまれているのなら良しとしよう。
「玖珂沼さん、明日の夜は空いてますか?」
「はい、大丈夫です」
…ん?今浦沢さん、何て言ったんだ?
「明日は社内会議の日ですから。会議の後は懇親会をやりますので」
あぁ、そうか。仕事に没頭していたから完全に忘れていたわ。一瞬、浦沢さんに夜のお誘いを受けたのかと思って焦ってしまった。そんなことある訳は無いか。
聞いた話だと浦沢さんは、まだ26才の独身貴族なんだそうだ。歓迎会の時に片岡さんが言っていた、『浦沢さんは年上好き』ってのも本当の話らしいけど、さすがに間も無く43才になろうとしている私なんかは、恋愛対象外だろう。一回り以上年の差があるからなぁ~。17才年の差って、芸能人じゃあるまいし。緒方さんは私と年が近かったから、私なんかでも良いと思ってくれたんだろうけど、さすがに浦沢さんぐらい年が離れちゃうとねぇ~。
社内会議では、会社の経営状況の説明や、各自担当している仕事に問題が無いかなど、いわゆる『報・連・相(ホウレンソウ)』が話し合われる。特に問題が無くても、必ず一人ずつ何か発言するようになっているので、私も仕事の進捗やらを報告している。
この日の社内会議も普通に終了し、社員を引き連れて例の居酒屋へぞろぞろ移動。私の歓迎会の時は人数少なかったけど、大体いつも、社内会議の後に開かれる懇親会には全員が参加していた。呑み代は会社持ちだからねぇ~。タダ酒なら呑まなきゃ損だ。
決まりごとのように浦沢さんが乾杯の音頭を取る。今日は何に対して乾杯するんだろうか?
「それでは、玖珂沼さんが晴れて正社員になれたことに乾杯!」
また私に対してか。何でか知らんが、ことあるごとに私に対して乾杯されている。私が社内会議に初参加したとか、私が参画したプロジェクトが無事に終了したとか、いつも適当な理由を付けて乾杯されている。
まぁ、別に悪い気はしないけど、特別扱いされているみたいでちょっと恥ずかしい。いい年こいた大人なんだし、そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫なんだけどなぁ~。
「幸子さん、正社員に昇格おめでとうございます!」
今日も片岡さんは、顔を真っ赤にして酔っ払っている。もう既に、この人はこういう人なんだと割り切ることにした。
「ありがとうございます~。本当に、正社員になれて良かったですよぉ~」
普段は社外に派遣されている人達も、私におめでとうを連呼する。何だか照れるなぁ~。
「玖珂沼さんも正式にウチの正社員になったことだし、これからもよろしくお願いしますね」
浦沢さんが爽やかな笑顔でそう言って、グラスをカチンと合わせて来た。この人はいつも、呑んでいるのに平静でいられる人なんだよなぁ~。まだ若いのに感心なことだ。
「ありがとうございます~。こちらこそ、末長くよろしくお願いします~」
飲み会も佳境に差し掛かると、私はいつも、一足先に引き上げることにしている。ほとんど毎日のように残業しているし、月一の懇親会だからといって、あまり帰りが遅くなっては風香が心配だ。風香自身は大丈夫だよって言ってるけど、まだまだ子供だからなぁ~。
「浦沢さん、私はそろそろ帰りますので」
そう言うと、浦沢さんはいつも残念そうな顔をする。
「あ…はい、お疲れ様でした」
他の人にも挨拶だけはして、サッサと店を出ようとする。でも、この日はいつもと違っていた。
「玖珂沼さん」
ちょうど店を出たところで、背後から浦沢さんに声を掛けられる。一体何だろう?
「はい?」
「もし良かったら、今度の懇親会にはお子さんもご一緒しませんか?」
え?何を言っているんだ?この人は。
「ウチの子を、ですか?」
一瞬、自分の耳を疑ってしまったが、浦沢さんは真面目な顔をして話している。
「えぇ、玖珂沼さんはいつも、お子さんの為にみんなより早く帰っていますから。それならお子さんと一緒に参加して親睦を深めるのはどうかなと。もちろん、無理にとは言いませんが」
「う~~ん…、さすがに、飲み会に子供を連れてくるのはどうかな?と思いますが…」
気を遣ってくれるのは嬉しいけど、さすがに会社の飲み会に風香を連れてくるのは憚られる。風香が酔っ払いの大人に囲まれる状況は、親として好ましくないと思うんだけど…。
「それじゃ、たまには気分を変えて、昼間のファミレスで食事会とかどうですか?他の社員にも家族を連れて来てもらえば、玖珂沼さんだけ浮いた感じにはならないと思いますよ」
なるほど、それなら良いかな~。風香を夜に連れて歩くのは抵抗あるけど、昼間のファミレスなら良いかもしらん。他の社員さんにも所帯持ちはいる訳だし、私だけ特別扱いされた感じもしないだろう。
でも…、何で浦沢さんはこんなことを言うんだろう?単純に社員同士の親睦を深めたいってだけとは思えないんだけど。
「良いですね、それ。ランチで懇親会なら、子供連れでも参加出来そうですし」
「それじゃ、来月はそうしましょう。引き留めちゃってスミマセンね」
浦沢さんはそう言って、居酒屋に戻って行った。…何だろう?浦沢さんの真意が分からない。私に対してどんな感情を持っているんだろうか?『年上好き』とは話に聞いたけど、正直私なんかは恋愛対象外だと思う。もしマジだったら、『年上好き』ってよりは『熟女マニア』なんじゃないのか?でも浦沢さんは、明らかに私を特別視しているとしか思えないよなぁ…。
風香を浦沢さんに会わせたら、どうなっちゃうんだろう?家族ぐるみのお付き合いにまで発展するとか?将を射んと欲すればまず馬を射よって?まさかねぇ…。本当に、社員同士の親睦を深める為だけなら、気が楽なんだけど…。
それ以前に、私自身は浦沢さんのことを、どう思っているんだ?性格も温厚で見た目も悪くない。何より、まだ若いのに会社の社長をやっている。恋愛対象としては申し分無い人なんだろうけど、17才も年下だからなぁ~。何か、好きな人?って考えても、正直ピンと来ない。
私なんかを拾ってくれて、正社員にまでしてくれたんだから良い人だとは思うけど、恋愛対象にはならないかなぁ~?まぁ、好かれて嫌って訳じゃないけど、こちらから、恋愛目的でアプローチするのは抵抗がある。
緒方さんぐらいに丁度良い感じの大人の人だったら良かったんだけど…。でもまぁ、緒方さんみたいな人が、独身で彼女もいなかったっていうのはレアケースか。緒方さんと浦沢さんを比べるのも、ちょっとどうかと思うし。
これから先、もしも浦沢さんが私を口説いてくるようなシチュエーションになったらどうしよう?丁重にお断りするべきか?それとも、好意を素直に受け入れるべきか?こんなことで悩んでいる私を、天国の緒方さんはどう思うだろう?
もしも本当に浦沢さんが私を恋愛対象として見ていた場合、緒方さんに対しても、風香に対しても、私は全く恥ずかしく無い、胸を張って正しいと言える選択を出来るんだろうか…?
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