第5話『前途多難』

 何度不採用になろうとも挫けずに応募し続けて、どうにか面接も乗り切り、ようやく新しい仕事が決まった。このまま失業手当が切れる迄無職のままなんじゃないかと不安になったけど、どうにか仕事が決まって一安心だ。

 今度の仕事は、とある会社の事務員。従業員20人にも満たない小さな会社だけど、事務の仕事は未経験でも雇ってくれたのが有難い。最初の試用期間3ヶ月は契約社員で始めて、問題無ければ正社員にしてくれるとのこと。問題無ければ…ってのが引っかかるけど、まぁそんなに心配しなくても大丈夫だろう。パソコン使ってカタカタとデータ入力。Officeとかは全然詳しくないけど、仕事をやりながら覚えてくれれば良いとのお達しだ。有り難い話だよねぇ~。こんな私でも雇ってくれるなんて、それだけでも有り難い。

 職場も自宅から3駅しか離れてなく、ワリと近いので通勤も苦にならない。後は継続雇用してもらえるかが重要だけど、こればっかりはやれるだけ努力するしかあるまい。とにかく私に出来ることを全力でやるだけだ。

 問題なのは、服装はオフィスカジュアルで~って言われていることなんだけど、私はそんな服持って無いぞ。ラフなジーパンとかじゃなければ良いみたいだけど、何か仕事用に新しい洋服を買っておかなければならんな。仕事の為とはいえ、痛い出費だ。また実家に泣きつくしかないか…。


 出勤初日。新しいブラウスに袖を通し、久しぶりにスカートを履いた。いつもジーパンとか楽な格好ばかりだったから、何かこういうのは新鮮だな。服に合わせてパンプスも買ったけど、イマイチ履き心地が悪い。やはり安物を買ったのは間違いだったろうか?それでも多少は様になっているのか、風香から「ママ、OLさんみたい」なんて言われて悪い気はしない。私がOLかぁ~。全然しっくりこないけど、仕事的にはそうなるんだろう。


 職場に入り、一通り挨拶を済ませ、簡単な案内を受けたら、いよいよ仕事開始だ。ちゃんと私の席が用意されていて、パソコンも置いてある。後はやることやるだけだ。ちょっと緊張するけど、当たって砕けろだな。今更後には引けないし。

 先輩社員の狭山さんって人から、この会社での仕事について色々と教えてもらう。先ず、朝出勤したら、全員で事務所の掃除をするんだと。面倒臭いけど、小さい会社だからしょうがないか。それが終わったら、お約束の朝礼。社長の有難いお言葉を頂き、連絡事項を話される。締めは社訓を全員で唱和すること。何か宗教染みていて、こういうのは好きになれない。

 いよいよ自分の席に着いて仕事の始まりだ。パソコンを立ち上げてメールの確認から始める。まだ入社したばかりだから新着メールは無いんだけど、これからは連絡事項に返事を書いたりするらしい。

 それが終わったら、書類をパソコンに打ち込む。取引の契約書類やら経理に回す領収書やら、社員が勉強に使う書籍の文章の打ち込みとか。やらなきゃならないことは山程ありそうだ。これ全部パソコンに打ち込まなくちゃならんのか…。気が遠くなりそうだ…。

 Wordは文章を打ち込むだけだから大して難しくないけど、Excelは少し難解だぞ。関数とかマクロとか言われてもサッパリ分からん。そうかと思えば、Wordも思い通りのレイアウトにならなくて頭を悩まされる。何でそこでページが切り替わるんだよ?表を挿入しても、全然形が整わないじゃんか。使い始めたばかりだからかもしれないけど、本当にイライラする。全然思い通りにいかないじゃんか。こんなんが事務員の仕事なのか?何か、初日にこんなこと言うのもなんだけど、私には務まりそうに無い…。

 あ~、タバコ吸いたい、酒飲みたい、パチンコ打ちたい。せめてタバコぐらいはと思うが、当然ながら事務所は禁煙。狭山さんに喫煙所の場所を聞いたら、ビルの裏口にポツンと灰皿が置いてあるだけ。何じゃこりゃ?雨が降ったらどうするんだ?夏の炎天下も冬の寒空の下でも、こんな所でタバコ吸えってのか?エラく喫煙者を冷遇する会社だな…。タバコを吸って一息つくつもりが、今後のことを考えて憂鬱になる。何かエラい会社に入ってしまったかも…。


 WordとExcelに悪戦苦闘して、ようやく昼休みに。外食するような余裕は無いから、自分でお弁当を作ってきた。

「玖珂沼さん、お弁当なのね。この辺は色んな美味しいお店があるから、いつか一緒に行きましょうよ」

「そうなんですか~。まぁ、お給料出たら、ご一緒させて下さい」

 狭山さん達はゾロゾロと連れ立って、ランチを食べに行ってしまった。フンだ。今に見とれよ。私だってお金さえ入れば、お店で優雅にランチを楽しんでやる。

 一人で黙々と食事を済ませ、タバコでも吸いに行こうかな~と思ったら、突然事務所の電話が鳴ってビックリした。今事務所にいるのは私だけだ。他に電話に出てくれる人はいない。どうしよう?普通に考えれば、私が電話に出るべきだよな…。でも、何て言って電話に出ればいいんだ?入社したばかりだから、当然相手もどこの誰だか分からん人だろうし、自分の会社のことすらもよく分かっていないんだから対応に困るな。そんなことを考えている間も、電話は鳴り続けている。胸がドキドキしてきた。頭の中がわやくちゃになって、考えがまとまらない。焦る、焦る。そして私は、鳴り続ける電話から逃げ出した…。


 喫煙所とは名ばかりのビルの裏口で、私はタバコに火をつけ胸一杯に吸い込んだ。まったく…、何で昼休みに電話なんかかけてくるんだよ…。一体どこの誰なんだ?どうせ大した用件じゃないんだろう。…多分そう思う。そう思いたい。そうであってくれと願う。

 しかし、事務所に誰もいないまま出てきたのはマズかっただろうか?でも、留守番頼まれた訳じゃないし、私だって食後の一服ぐらいはしたい。これぐらいは大目に見て欲しいもんだ。

 でもなぁ~、やっぱり電話を無視してタバコを吸いに出たのはマズかっただろうか?一応、私もこの会社の従業員なんだし。こういう場面でもしっかり対応出来るってことをアピールするチャンスだったのかもしれない。

 でも、終わったことをクヨクヨしててもしょうがないか。どんなお沙汰が下されるのか、震えて待つより他にない。

 2本目のタバコに火をつける。3本目、4本目、タバコが止まらない。事務所に戻らず、このままここでやり過ごしたい気分だ。でも、昼休み中に戻らなくちゃ、もっとマズいことになるだろう。事務所に戻るのに、足取りが重い…。出来ることなら、このまま逃げ出したいな~。やっぱ、何か怒られるんだろうか?ハァ…、初日から何やってるんだろうな?私は…。


「ちょっと玖珂沼さん、事務所を空けてどこに行ってたの?」

 やはり狭山さんに怒られるのか。まぁ、当然だろうけど。

「はい、ちょっとタバコを吸いに行ってました…」

 ここはしらばっくれるしかない。電話が鳴っていた時には、既に私は喫煙所に行っていた。そういう体で乗り切るしかないだろう。

「事務所に誰もいない状態で外に出ちゃダメでしょ?もし、お客様が来たり電話があったらどうするのよ?」

 言い訳無用だな。返す言葉も無い。

「スミマセン、気を付けます」

 だが、お説教はまだ終わらない。

「私、事務所に電話入れたんだけど、その時はもう喫煙所に行っていたのかしら?玖珂沼さん一人だけ残して出ちゃったから、留守番のことを話しておこうと思ったんだけど」

 あの電話の主は狭山さんだったのか。やはり電話に出ておくべきだったな…。

「スミマセン、ご飯食べた後、すぐ喫煙所に行っていたもので…」

 でも、それならそうと、出かける前に話を済ませてもらいたかった。急に私一人残して皆んな事務所を出ていくんだもんなぁ~。まぁ、口答えすると余計にお説教されそうだから、ここは素直に謝って済ませよう。

「今度から気を付けてね。初日だから慣れないことが多いかもしれないけど、昼休み中でも事務所を空にしない、電話にはすぐに出ること」

「はい、スミマセンでした」

 何か、やっぱり面倒臭い会社だ。会社というより、ここでの仕事がかな?私に落ち度があるとはいえ、こんなお説教を食らってはスッキリしない。初めての事務員ということもあるけど、本当に私に、この仕事は務まるんだろうか?

 考えてみれば、私には工場でのライン作業の方が、精神的に楽だったかな~。憧れのオフィスワーク。勝手に華やかなイメージを持っていたけど、現実は厳しい。これから先、どうなるんだろう?何か、また頭が痛くなってきたな…。


 時刻は午後5時半、ようやく終業時間に。これで今日の仕事は終わりか。WordとExcelに頭を悩まされ、慣れないデスクワークで肩も凝っている。些細なトラブルもあったけど、出勤初日はどうにか乗り切ったか。さて、サッサと帰ろう。風香がお腹を空かせて待っているだろうし。

 パソコンの電源を落として帰り支度を始めたら、狭山さんに声をかけられる。

「玖珂沼さん、もう帰っちゃうの?残業は?」

 なんて言われた。

「えぇ、家で子供が待っていますんで。早く帰って晩御飯の支度をしないといけないですから」

 そう返事をしたら、狭山さんは何やら不満そうな顔をしている。

「玖珂沼さん、作業の進捗はどうなの?ボリューム的には今日中に終わりそうな内容だったはずだけど?」

 イヤ、明らかに無理だから。初心者の私が、今日中に終わらせられるとは思えない。そもそも、徐々に仕事に慣れていってくれれば良いって話だったし、ウチが母子家庭だっていうことも面接の時に話している。それなのに、残業しろっていうの?

「全部はまだ終わってないです。続きはまた明日ということで」

「玖珂沼さん、貴方やる気あるの?皆んな残業してでも自分の担当作業を片付けているっていうのに、貴方一人だけ定時で帰っちゃう訳?今日は初日なんだから、少しぐらいは頑張ろうって気にならないの?」

 何かカチンとくる物言いだな。私だって十分頑張っているんですけど?慣れない仕事、慣れない職場で頑張りましたけど?そんなことを言われる筋合いは無いでしょうが。それに、残業するかしないかとか、そんなんでやる気が無いとか言われたくない。定時の範囲内でも、私は出来るだけのことはやったつもりだ。

「でも、ウチは母子家庭で子供もまだ小さいから、残業は出来ないって面接の時に言ったんですけど?それでも構わないからっていうことで採用された訳ですし」

 ここは私も引かない。引き下がる理由が無い。もうとっくに風香は学校から帰っている時間だ。早く帰って晩御飯の支度をしないといけない。私は何も、間違ったことなんか言ってない。

 と、ここでようやく社長が口を開いてくれた。

「あ~、狭山さん、玖珂沼さんは家庭の事情があるから、その辺は大目に見てあげて。玖珂沼さん、お疲れ様。明日からもよろしくね」

「はい、お先に失礼します」

 狭山さんはまだ何か言い足りないような顔をしていたけど、折角社長が助け船を出してくれたんだ。ここはサッサと帰らせてもらおう。

 しかし、こういう話はちゃんと事前に済ませておいて欲しかったな~。何か、私が原因で職場を険悪な空気にしたみたいじゃんか。明日からの仕事に影響しなきゃ良いんだけど…。


 帰宅すると、風香はいつも通り大人しくテレビを視ながら、私の帰りを待っていた。

「ママ、おかえりなさ~い」

 仕事から帰ると愛娘の笑顔が待っている。久しぶりだな~、こういうの。仕事の疲れも吹っ飛ぶ感じだ。

「ただいま、風香。お腹空いたでしょ?すぐご飯作るからね」

 長く無職でいたから忘れかけていたけど、これが真っ当に生きるってことなんだろうな。ちゃんと働いてお金を稼いで、大切な家族を養う。私にだって、生きる意味はあるんだ。未経験の仕事だから不安や戸惑いはあったけど、風香の為だと思えば頑張れる気がする。安定して働けるよう、早く正社員にしてもらえるよう、明日からも頑張ろう。

 うん、当面の目標が出来たぞ。とにかく、私に出来ることを全力でやる。そうすればきっと良い結果は出るはずだ。私には魔法で奇跡なんか起こせないけど、きっと神様は頑張っている人間を見捨てたりなんかしないはず。努力は報われると信じよう。

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