第2話 泥だらけのお姫様

 女の子が泣いている。

 大学からの帰り道。

 友達はみんな、これで最後だからって泣きながら食事に向かった。なのに私は一人、袴の裾を汚しながら浜辺でしとしとと泣いている。

 

 あれは……あぁそう。この時だったな、スカウトされたの。親戚のお兄ちゃんだった裕晃さんに、事務所を立ち上げるからって誘われたんだよね。

 返事も出来ず泣き続ける私を安心させるように、しっかりと頭に置かれた大きな手。思わず、お父さんみたいだって言ったら怒られたっけ。懐かしいな。

 くすくすと笑ってると、彼の手のひらが慈しむように頭頂部から側頭部に滑り降りてきて。何だか変な感じがして、とっさに腕を掴んだんだ。

 悪いことをしたかと思い恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもと変わらない笑顔があって安心したのを覚えている。

 だってそれは役者さんがするような、完璧で美しい笑顔だったから。




「……ぱいっ! 春石せんぱいってば!」


 声がする。

 ぼんやりとした頭のまま、薄く開いた目で腕時計を確認する。時刻は2時を少し過ぎたところ。

 なんだか大切な夢を見ていたような気がする。けれどタクシーから伝わる不連続な振動を感じるたびに、少しずつその気持ちも薄れてしまう。こぼれて、消えてしまう。

 

「せんぱい、顔色悪いですよ。大丈夫ですか? あーでもオーディションまで時間ないですから、もーちょっと頑張ってください。そうだ! アンちゃんがパワーを送ってあげますよ!」

 「運転手さん。冷房、少し強くして頂けますか? あと、窓も少し開けてもらえるとありがたいです」


 すぐに寒いくらいの冷風が身体に当たる。単体では冷たくても、開いた窓から入ってくる外の暖かい空気と混じると、とても心地がいい。

 アンちゃんは本当に気が効く良い子だ。


「アンちゃんパワー、すごいよ。めっちゃ元気出た」


「そりゃそうですよ。抱かれたいアイドルランキング、男性陣を抑えて3年連続1位に輝いたアンちゃんこと『Why un-bloom』のスペシャルパワーですからね。舐めてもらっちゃあ困ります」


「ふふっ、やっぱりソロアイドルってのは強いね。そういえばランキングについての記者総評、面白かったなぁ。名前なんだっけ? 少し頭の寂しい芸人さん」


「んん? あぁ、トレンドデビルのひさしさんですね。まぁあの人、私の働き蜂の中でも古参ですもん。でもあの熱量の記事を見ちゃうと、出来レースを疑われちゃいますよ。気持ちは嬉しいんですけど」


 アンちゃんはそう言うと、小さく下唇を突き出してシートに深く沈み込んだ。動きに合わせて、風に揺れるカーテンのように彼女の栗色の長髪がふわり。

 

 うん、拗ねてる彼女も良い。

 シートにすっぽりと入るアンちゃんは、身長152センチと小柄だ。その上、瞳はパッチリと大きく、喜怒哀楽に合わせた表情変化は四六時中見ていられる。

 それでいて体重48キロ体脂肪率10%に裏付けされる、男女ともに好意を抱かれる肉体美。まさに完璧な見た目。

 これで性格もいいんだから、アイドルとして完成していると言っていいだろう。

 本当、同じ事務所の先輩後輩だからって、なんでこんなに慕ってくれているんだろうな。

  

「なんですか、じぃーとこっち見て。あ、もしかして背中に汗かいてるの分かっちゃいます?」


 慌てて背中を覗き込もうと、うごうごもごもご。可愛い。

 

「大丈夫大丈夫、わかんないよ。いや、本当にすごいよ。そりゃあアンちゃんは私と違って売れっ子になるよなって」


 言って、後悔する。先ほどの解雇宣言は、私自身が思っていた以上にダメージがあったのかもしれない。それでも後輩に当たるなんて、本当最悪。


「そんなこと! そんなことないんです。だって、だって先輩は……」


 案の定、アンちゃんは一生懸命に私の良いところを探してくれている。あぁ、惨め。


「あー……ごめん。ちょっとオーディション前でナーバスになっちゃって。そうだ! アンちゃん、森監督の作品に去年出てたよね? どんな感じの人なの?」


 両手を握りしめて力説しようとしてくれる彼女の言葉を遮って、強引に会話を切り替える。

 しかし納得がいかないのか、彼女は私の質問には答えることなく身体をこわばらせたまま逡巡しゅんじゅんの表情を浮かべていた。

 普段、あまり愚痴を言ったりしてないはずだから面食らったのだろうか。


「アンちゃん?」

 

 ややあって、アンちゃんは真っ直ぐに私の目を見つめる。そしてかたく結ばれていた口を開く。いや、開こうとした。

  

「ほわいあんぶるーむ……のお二人さん? お話中のところ申し訳ないけど。着いたよ」


 運転手のその言葉に、アンちゃんの肩が跳ねる。口を半開きにしたまま、私と運転手の間を形の良いアーモンドアイが揺れている。

 

 カッチ、カッチ、カッチ。

 ハザードの音が彼女を急かす。

 

 数瞬の後、彼女は誰かの判断を伺うように天を仰ぎ、ゆっくりと目を開けた。

 

「本当に、ごめんなさい」


 そして、頭を深々と下げながら、絞り出すように謝罪の言葉を紡ぐ。


「え、いいよいいよ。私の方こそ、なんかごめん」


 そもそも何について謝られたのか分からないのだから、と曖昧に笑う。

 彼女も力が抜けたのか、やっと苦笑いを浮かべてくれた。


 いや、もちろん気にならないと言えば嘘になる。だがこの業界、誰もが他人に言えない事を抱えて過ごしている。そう、だからこれもタイミングが合わなかったという事なんだろう。

 問題は、私には次がないだろうってことだけで。


 私に背を向け運転手と言葉を交わす彼女は、一体どんな表情を浮かべているのだろう。それは私の知っている表情なのだろうか。




「せんぱい、色々ごめんなさい。お待たせいたしました」


 タクシーを降りてからも運転手と少し話をしていたアンちゃんは、こちらに振り返ると目尻を下げて敬礼をする。

 やっぱりアンちゃんはとても可愛らしい。そして、とても強い。


 今更ながら考える。

 今日、オーディションで少なくとも彼女に勝てなければ、私の女優としての日々はおしまい。来月には新幹線に乗って田舎に帰り、両親の顔色を伺いながら婚活でもするんだろう。

 それが嫌ならば、この可愛い後輩をねじ伏せて、屈服させて、負けを認めさせなければならない。

 足元で苦しそうにうめく彼女を見下ろしながら、牧師の前で誓いのキスをする花嫁のように幸せそうな顔が出来なくてはならい。


 先ほどの、謝罪の言葉を絞り出した彼女の表情を思い出す。

 あんなにも儚く、美しい表情を私がさせるなんて、そんなこといいのだろうか?

 誰からも愛される『Why un-bloom』の、膝も心も折れるところを間近で見るなんて、そんなこと。


 「ううん、大丈夫だよ。行こうか」


 彼女からの返事はない。少し声の抑揚を抑えすぎたかもしれない。いや、考えすぎだ。きっと私の耳まで届かなかっただけだろう、だってーー

 だって見上げた空はこんなにも、澄み渡るような青空なんだから。

 

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