夏の朝

増田朋美

夏の朝

本当に暑かった。まあ、こんな暑いのが当たり前といえばそうなのだが、汗が滝のように出る暑さである。外へ出るのは、基本的に外国人ばかりで日本人は夏バテしているか、敢えて外へ出ないという人ばかりなのだろう。それにしても暑いという言葉しか出ない、今日このごろである。

「ああ、ここですよ。こちらが入り口です。インターフォン無いですけど、気にしないでいいです。」

と、いう声が聞こえてきたので、杉ちゃんも水穂さんもびっくりする。こんな暑い日に、何をしに来たのだろうと二人は、顔を見合わせた。

「本当にいらっしゃるんですか?」

と、女性の声も聞こえてくる。

「はあ、誰だろうね。若い男女のようだけど、なにしに来たのかな。こんな暑い日に。」

杉ちゃんが思わずそう言うと、

「先生、いらっしゃいますよね。上がらせていただきますよ。こういう日ですから、外出はしないで、ここに居るってことはちゃんとわかりますよ。」

と、言いながら、四畳半にやってきたのは、紛れもない桂浩二くんだった。

「浩二くん、こんな暑い日にどうしたの?」

杉ちゃんが思わず言うと、

「はい。どうしても、今日レッスンしていただきたい人がいますので、連れてきました。こんな暑い日ですから、先生はこちらにいらっしゃるなと思ったので、敢えて連絡はしませんでした。」

と、浩二くんはもうひとりの人物に、四畳半に入るように言った。

「右城先生、紹介します。僕のところに来ている、宗像さんです。正式な名前は、宗像志穂さんです。先月から、ピアノを習いたいということで、僕のところにレッスンに来ているんですが、この夏、コンクールに出たいと言いましたので、それなら、右城先生に見てもらおうということにして連れてきました。」

そう言って、一緒に入ってきた女性は、髪は黄色くて、まるでピアノというものには縁のなさそうな女性であった。杉ちゃんが思わず、

「なんかピアノを弾くって感じじゃないな、それよりも、女相撲に出たほうがいいみたい。」

なんて言うくらいなのだ。水穂さんが、そんな事いったら可哀想だよと杉ちゃんに言った。

「はじめまして、宗像志穂です。よろしくおねがいします。」

という彼女は、ふてぶてしい感じではなかった。それよりも、繊細すぎて壊れてしまいそうな感じの女性だった。

「わかりました。それでは、なんていう曲を演奏するのか、教えてもらえませんか?」

水穂さんが布団に起きながらそう言うと、

「はい。当初はカプースチンのトッカッティーナを予定していましたが、ちょっと事情があってそれは無理と言うことになりまして、代わりに、カスキの夏の朝という曲をやります。」

と、浩二くんは答えた。

「ああ、そうですか。確かにロシアものは、今の御時世ですと、ちょっと嫌われていますからね。では、弾いてみてくれますか。なかなか聞いたことのない作曲家ですけど、どんな演奏をしてくれるか、聞いてみたいです。」

水穂さんがそう言うと、志穂さんは、はいと言って、グロトリアンのピアノの前に座った。そしてカバンの中から楽譜を取り出し、それを譜面台に置いて、演奏を始めた。それは、女相撲に出られそうな体格とは裏腹に、強弱もちゃんとついていて、とても女性らしい演奏である。北欧系の作曲家の作品というのは、美しいメロディーに、なにか物悲しい感じが出るものであるが、志穂さんはそれを上手に表現している。

演奏が終わると、杉ちゃんも水穂さんも拍手をした。

「とても繊細で女性らしい演奏ですね。悪い意味ではありませんよ。演奏技術的にもよくできていますし、コンクールに出ても問題は無いと思います。あとは、上がらないで演奏できるといいですね。」

水穂さんが彼女を褒めると、

「ホントだホントだ。相撲取りになれそうだと思ったら、そのソーセージ指で、お上手に弾くんだな。顔を見ると、なんか逸ノ城みたいに見えるけど、意外にそうでも無いってことか。」

杉ちゃんも彼女に言った。確かに、彼女は、顔を見ると相撲取りの逸ノ城にそっくりだ。ついでに体格もそっくりで、単にご飯を食べすぎて肥満している、というだけではなさそうな気がする。

「カプースチンよりこっちのほうがずっといいと思うよ。ぜひ、コンクールでいい演奏してやってよ。」

杉ちゃんは話を続けた。

「僕もそう思いますね。カプースチンは、一時期とても流行りましたが、それに乗りすぎるのもどうかと。それより、ご自身の演奏を生かして、良いところまで行けるほうがいいと思います。これからも頑張ってください。」

水穂さんがそう言うと、浩二くんが、

「それでは、より彼女の演奏をより良いものにするために、注意点などを遠慮なく仰ってください。」

と言った。水穂さんは少し考えて、

「そうですね。少し左手が大きすぎる気はしますので、右手をもう少し出すようにしてみてください。そして、左手はもう少し音量を抑えて。それだけでもかなり変わると思います。トリルは、オーバーアクションはしないで、指を静かに動かしてください。」

と、指導者らしく言った。志穂さんは、勉強熱心なのだろうか、一生懸命、水穂さんの言ったことを楽譜に書き込んでいる。

「よく勉強して、逸ノ城は勤勉だな。」

と、杉ちゃんが言った。

「それにしても、ヘイノ・カスキなんて珍しい作曲家の作品をやるんですね。どうして、コンクールに出ようと思ったんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、ネタが無いからです。」

と、志穂さんは言った。

「ネタ?」

杉ちゃんが聞き返すと、

「ええ。そうなんです。娘が学校の夏休みの宿題で、夏休みの思い出を作文に書いてきてと言われたようですが、私は、旅行に連れて行ってやることもできないし、どこかテーマーパークへ連れて行くこともできません。出来るとしたら、ピアノを弾くだけです。それを、桂先生に相談してみたところ、じゃあ、コンクールに出てみろと言うものですから。私、娘が生まれてすぐに、精神がおかしくなってしまって、それで、薬を毎日飲んで居るんですけど、副作用で激太りしてしまいまして、、、。」

彼女はとても恥ずかしそうに言った。

「ああ、あんまり辛いことは言わなくてもいいよ。それより、娘さんに、お母ちゃんは頑張っているぞ!と言えるような、演奏が出来るといいね。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女はちょっと意外そうに二人を見た。

「お二人は、私が働いていないことを、責めたりしないんですか?」

「はい。しませんよ。お前さんが、平穏な生活を得るために、容姿や体力を犠牲にしていることは、ちゃんとわかります。それより、娘さんが、お母ちゃんが無職で同級生からバカにされるとか、そういう事、気にしているのでは?」

杉ちゃんがそう言うと、彼女はとても恥ずかしそうにハイと言った。

「そうか。じゃあ、なおさら、コンクールに出たほうがいいな。よほどの八百長が行われない限り、公平に評価してくれる場だからね。ぜひ、頑張って優勝してくださいよ。僕達、心から応援しますよ。」

「ありがとうございます!」

彼女はとても嬉しそうに言った。

「僕も、杉ちゃんも、みんな応援しているんですから、もう少し自信を持ってくださいね。逸ノ城みたいと言われても、だから何って感じで構えていてください。」

浩二くんがそう言うところから見ると、彼女は自分に自信を持っていないことで、かなり困らせたのだろう。誰でもそうだけど、自分に自身があるのと無いのでは、態度が偉く違うのである。

その日は、コンクール出場目指して頑張って、と杉ちゃんも水穂さんも、彼女を励まして、ピアノレッスンは終わった。浩二くんと一緒に帰っていく志穂さんを、杉ちゃんも水穂さんも、もう少し自信を持ってほしいなと思いながら眺めていた。

それから、数日後のことである。その日は、先日よりも更に暑くなり、エアコン無しではいられないというくらいの暑さだった。命に関わる危険な暑さと、市のほうそうでアナウンスされているくらいだ。杉ちゃんの方は、平気な顔をしていたが、水穂さんは、暑いせいか、ご飯を食べることもなく、咳き込んで居るばかりである。

「もう、ご飯ぐらい食べてくれないかな。いくら暑くてもご飯を食べなくてもいいというわけではないぞ。」

杉ちゃんが何も手を付けていない、そうめんを眺めながら水穂さんに言うが、水穂さんは、疲れ切った顔で、布団に寝ているだけであった。時々、咳がでて、ちり紙で口元を、杉ちゃんに拭いてもらっていた。

「こんにちは!いや、もうこんばんはと言ったほうがいいのかな?右城先生、今日コンクールがありましてですね。良い知らせを持ってきましたよ!」

と、引き戸が勢いよく開いて、浩二くんが入ってきた。同時に、宗像志穂さんも一緒に入ってきた。

「お陰様で、好演賞を頂きました。順位には、入らなかったけど、症状がもらえて良かったです!先生、ありがとうございました。」

「はあ、こんな暑いときに、コンクールがあったのか。」

と、杉ちゃんは、浩二くんの言葉を聞いて、驚いた顔で言った。

「本番、上がらなかった?」

「ええ、何もなかったといえばウソになりますが、でも、自分の演奏を精一杯やれたと思います。先生、本当にレッスンしてくださって、ありがとうございました。頑張って、演奏できました!」

杉ちゃんにそう言われて、志穂さんは、にこやかに言った。

「そうですか。それなら、娘さんに、堂々と、作文に書くように言えますか?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。ですが、娘は、夏休みの宿題のテーマは、自分で選ぶことにしたようで、コンクールのことは書かないようです。まあ、親のすることなんて、だいたいそうなってしまうものですよね。」

志穂さんは、そういったので、笑い話になってしまったが、とにかく彼女が自信を持つことができて、良かったと杉ちゃんも水穂さんも思った。

「じゃあ、これからは、ピアノがあるんだって、自分に言い聞かせて、娘さんと一緒にいきぬいてくださいね。」

浩二くんがそう言うと、志穂さんはハイと言った。それと同時に志穂さんのスマートフォンがなった。

「はい、宗像でこざいます。はい、ああ先生。え、あ、美咲が?わかりました。すぐに行きます。」

志穂さんはスマートフォンを切って、

「すみませんが、娘がまた警察に居るようで、、、。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「どうしたんですか?」

浩二くんがそうきくと、

「電車の中で騒いで、警察にいるそうです。」

彼女はそういって、あんこな体を動かして、急いで製鉄所を出ていった。杉ちゃんも水穂さんも彼女の背中を見て、

「問題だらけの親子のようだな。」

と、言った。

「そうですね。もしかしたら、美咲さんと言っていた娘さんも、なにか問題があるのかもしれません。でも、僕は彼女のことを信じてますよ。だって、ああして、夏の朝という曲を美しく弾けるんですから。」

水穂さんは、そう呟いたのだった。

夏はまだまだ続く。きっと今日より暑い日がずっと続くのだろう。でも、彼女たちは、一生懸命幸せになろうとしているのだと思われた。日本の夏は、命に関わる危険な暑さでもあるが、それに立ち向かっていく人もいるのだ。

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夏の朝 増田朋美 @masubuchi4996

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