第五話 水底に沈む
肯定の言葉を聞いた男は、少女の肩をそっと抱いて、池へと歩き出す。
その途中で少女は足を止め、頭二つ分ほど高いところにある、男の顔を見上げた。
そして、小さな唇をそっと震わせる。
「三つ、聞きたいことがあるのだけど」
「何だ?」
間髪入れず、答えることに了承した男に、少女は小さな声で尋ねる。
「わたしの周りに透明な壁をつくったのは、あなた?」
「ああ、そうだ」
またしても、間髪入れずに帰ってきた言葉は、肯定だった。
「なぜ?」
少女の純粋な問いかけに、男は目を細めて答える。
「俺がお前さんを、気に入ったからに決まってるだろ」
気に入ったものを傷つけられるのは、誰だって嫌だろう?
そう続けられた言葉で、納得した。
自分のどこが気に入ったのかはわからないけど、別にそれは気にならない。
これを問うたのは、乳母がそのことをずっと気にしていたから。ただ、それだけ。
もし乳母の魂が玲藍のそばにいるなら、きっと安心しているに違いない。
そんなことを考えつつ、少女は次の疑問を口にする。
「池に入った人は皆、攫っていると聞いたけれど、ほんとう?」
「いや、それは違う」
今度は、否定が返ってきた。
「そもそも、この池に来る者は、自ら命を断とうとするものが大半なんだ。だが、自分の
呆れと可笑しさを含んだ笑みを浮かべつつ、男は軽く肩をすくめる。
そんな男に、少女は最後の疑問を投げかける。
「なぜ、わたしを池へ誘うの?」
その問いに、男は一瞬だけ間をおいてから、答えた。
「……お前さんが、池へ入りたいと、願ったからだ」
――わたしは、この池に入りたかった。
すとんと、何かが収まるべきところに収まったような感覚がした。
今までで一番、納得できる答えだったから。
四年前に感じた、灰色の雲が映っているにも関わらず、ひどく美しい池に、ずっと惹かれていたのだと、今更ながら実感する。
だから少女は、口角をほんの少しだけ上げて、言葉を口にする。
「わかった。これから、よろしくお願いします」
そう頭を下げれば、男もふっと表情を緩め、言葉を返す。
「ああ、よろしくな。花嫁殿?」
こうして、ひとりの少女とひとりの男は、水底へ沈んだ。
それを見た人間は、誰一人としていない。
その後に二人を見た人間も、誰もいない。
それ故、二人がどうなったのかは、誰も知らない。
ただ、一人だけ。
玲藍という名の公主と、その母である炴婕妤。そして公主の乳母であり、炴婕妤の侍女頭の葬式が行われた際、龍の姿を見たと語った人間がいたと言う。
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