第四話 乳母の死
「……もう、わたしを引き留めてくれる人はいないから。」
そう続けた少女は、ふっと灰色の空を見上げ、乳母の最後を思い出す。
――今朝のことだ。玲藍の乳母が、死んだのは。
今朝は、今まで素手や扇を使ってでしか玲藍をぶつことがなかった母親が、護身用の短剣を持って、玲藍に襲い掛かったのだ。
案の定、玲藍の周りにはいつもと同じ結界が現れたため、彼女は無事だった。
だから。
止めることなんて、なかったのに。
玲藍の乳母は、少女の母親に縋りつき、止めて下さいと懇願した。
その両目から、ぼろぼろと涙を零しながら。
正気を失った女は、感情の赴くままに、自らの邪魔をする彼女の身体へ短刀を振り下ろした。
――グサッ。
冷たい刃が乳母の柔肌を切り裂き、鮮血が辺りに飛び散る。
銀色に光る刀身の一部は血の色に濡れ、彫り込まれた炴家の紋章を隠した。
女の手は、短刀を握ることを止め、滑り落ちたそれは、カキンと音を立てて床に落ちた。
飛び散った赤い雫は女にもかかり、紙のように白い肌と、象牙色の襦裙を汚す。
喉から、ダラダラと大量の血を流す乳母の侍女服は当然血を吸って変色し、顔色は一秒ごとに生気を失ってゆく。
やがて、乳母の焦げ茶の瞳からは光が消え、瞼がゆっくりと閉じられた。
――刹那。
「い、やあああぁぁぁぁぁっッ!?」
女の絶叫が、響いた。
女は、娘の乳母であり、侍女頭であり、自分の唯一の友人を抱き起し、必死で揺する。
両目からはらはらと零れ落ちる大粒の涙で、乳母の胸元に染み付いた赤が少し薄まった。
しかし乳母は血を流すばかりで、一向に瞼を上げようとはしない。
それに気が付かないほど、女は狂ってはいなかった。
「ああ……」
女は乳母を揺することを止め、床に転がっていた短刀を再度掴み、べったりと血の付いた刃を自身へと向ける。
一瞬。
女は、玲藍の方を向き、ふわりと微笑んだ。
そして、躊躇うことなく短刀を自身の喉に突き立て、ぱたりとその場に倒れ伏した。
僅か数秒の出来事だった。
動くことも、声を上げることもできなかった少女は、静寂が訪れたことにより、我に返る。
そして、自身の頬が濡れていることに気づいた。
乳母の血がここまで飛んだのかと思い、手で軽く拭う。
拭った手の甲を見れば、そこには透明な液体が光を反射してキラキラと輝いていた。
そこには一滴の赤も混じっていない。
気づけば、また頬が濡れている。
それを手の甲で、拭う。
何度も何度も繰り返すうちに、少女は理解する。
自分が、赤ん坊の頃を除けば、今までの生涯で初めての涙を流しているということに。
そして玲藍は、生まれ育った宮を飛び出し、四年前に訪れた、龍の住むという庭へと駆け出したのだ。
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