第三話 少女と龍

 ポツリ、ポツリ。

 

 透明な雫が零れ落ちて、池の水と同化してゆく。

 四年前と同じように、龍庭園と呼ばれる空間には雨が降っていた。

 

 そして、四年前に庭園に迷い込んだ少女が、ゆっくりと。しかし、あのときよりも広い歩幅で池へと向かっている。

 

 少女は、四年前とは違う白花色しらはないろ単衣ひとえに、白藍しらあい長裙ちょうくん。瞳と同じ翡翠色をした被帛という出で立ちだった。

 

 長裙は、同じ色の布を重ね合わせて、細かなひだをいくつも作っているため、少女が一歩進む度に柔らかく波打つ。

 ふわふわと揺れる被帛も相まって、少女は妖精と錯覚してもおかしくないほどの美しさを持っていた。

 だが、何も映そうとしない虚ろな瞳は、四年前と全く変わっていなかった。

 

 ――むしろ四年前よりもその瞳の闇は深く、既にこの世にいないのではないかというような危うさすら感じさせる。

 

 そんな、肉体的な存在感に欠ける少女は、自分の意志を持って池へと進んでゆく。

 

 ゆっくりと歩く少女の足が、池の水に触れかけたその時。

 

 「待て」

 

 低く、落ち着いた声が少女を呼び止めた。

 体ごと振り向けば、少女の後ろには一人の男が立っていた。

 

 男は、白磁の交領衫――男性の礼服――に、深紫の袴を身につけた美丈夫だった。

 玲藍とは異なる健康的な薄い褐色の肌に、玲藍と同じ翠の瞳。

 そして、上から下にかけて、竜胆色から濃紫へと徐々に変化してゆく長髪が、彼が人間ではないことを表していた。

 

 そんな姿を見ても、玲藍が疑問を抱くことはない。

 

 ――どうでもいいからだ。

 

 自分を含めた、全てが。

 でも、自身の乳母以外の者が、玲藍を止めたということに対しては、不思議に思っていた。

 

 ――わたしのことなど、皆どうでもいいはずなのに。

 

 玲藍が、すべてのことがどうでもいいのと同様に、乳母以外の者は皆、玲藍のことをどうでもいい存在だと思っているというのに。

 

 物心ついたときから、母と教えられた女性には、顔を合わせるだけで罵倒され、暴力を受けた。

 それ以外の人からは、いないものとして扱われた。

 父という存在に至っては、顔を合わせたことすらない。

 

 ただ、乳母だけに笑いかけられ、育てられるだけの日々。

 

 自死しようとしなかったのは、それが面倒くさかったことと――辛くもなんともなかったからだ。

 

 皆が自分を無視することが、当たり前。

 母が自分を厭うことが、当たり前。

 父はいないのが、当たり前。

 

 昔からずっと、そう生きていたから、今さら何とも思わない。

 

 でも、何もしないでいるということも退屈だったから、少女は色々な場所へ出かけた。

 色々な宮殿へ遊びに行ったし、夏場によく茶会が開かれている水辺の四阿や、春先には大規模な行事が開かれ、花が咲き乱れる庭園へ足を延ばしたこともあった。

 雨の降る日は書庫へ入り浸り、多種多様な書物に手を伸ばした。

 

 そのどれにも、興味などこれっぽっちも沸いたことはなかった。

 退屈を紛らわす手段としては、悪くはなかったけれど。

 

 そんな少女が四年前に紛れ込んだ庭園。

 それは、少女が初めて興味関心といった類の感情を抱いた空間だった。

 

 あのときは、もう行ってはいけないと乳母に言われたけれど……今、少女を止める者は、誰もいない。

 

 ……その筈、なのに。

 

 男は、僅かに動揺する少女を真っ直ぐに見据えて、言葉を紡ぐ。

 

 「お前さんは、龍に会いたいんだろう?」

 

 男の問いかけに、少女はこくりと頷く。

 そんな少女に向けて、男はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 「龍は、俺だよ」

 

 「……あなたが、龍?」

 

 少女の言葉に、自らを龍と自称した男は、もう一度口を開いた。

 

 「ああ、そうだ。もっと言えば、お前さんを、池の中へ招待しに来た」

 

 俺なしで入ったりしたら、溺れるぞ?と、付け足した男は、口元に浮かべた笑みを深めた。

 

 そんな男からの予想外の言葉に、少女は軽く瞠目する。

 

 何故かはわからないけれど、ずっと会ってみたかった龍が、目の前にいること。

 亡き乳母以外の者が、少女に興味を向けていること。

 そして、目の前にいる龍が、自分を何処かに連れて行こうとしていること。

 

 そのことに、とてもからだ。

 

 そして同時に、自分にも感情と名の付くものが存在していたのだと、あらためて実感する。

 そんなものの有無など気にしたことがなかったけれど、体感してみれば悪くない。

 

 むしろ、自分が生きているという実感が湧き、心地いいとすら感じた。

 

 その余韻に浸っていた少女に、男は

 

 「来るのか、来ないのか?」

 

 と、そう尋ねる。

 少女はその言葉に、迷うことなく答える。

 

 「行く」

 

 ……もう、わたしを引き留めてくれる人はいないから。

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