第二話 公主の母

 「――にくい。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

 

 さながら、呪詛のように繰り返される憎しみ。

 一人の女が、ボロボロの唇から小さな声で。しかし計り知れないほどの負の感情のみを、延々と零している。

 

 大量の白粉を塗りたくられ、病的なほどに白く染まった肌の下の皮膚は、あまりに濃い化粧を長時間施し続けたことによって、火傷を負ったかのようにただれて炎症を起こしており、けばけばしいほどに彩られた目元には、隠し切れない隈が浮かんでいる。

 頬はこけ、かつては理想的だと評判だった筈の肢体はガリガリに瘦せていた。

 よくよく見れば整った顔立ちをしているものの、十六年前までは、美貌をもって皇帝の寵を受けていた妃の姿とは到底思えない。

 

 フラフラと、幽鬼のように足を踏み出した女は、突如として、飾られていた陶器製の壺を手に取り、それを床に叩きつけた。

 

 ガシャン、と音を立てて、壺だった陶器の欠片が宙を舞う。

 一瞬。

 陽光を浴びてキラキラと輝いたそれは、一拍後にはただのごみと化す。

 

 床に散らばる鋭い破片を睨み付け、女は唇を戦慄わななかせ、叫ぶ。

 

 「すべてあの娘が悪いのよ。あの娘のせいでわたくしはーーーっ」

 

 言い終わる前に、女は床へと崩れるようにへたり込んだ。

 腕に、脚に、破片の鋭利な切っ先が突き刺さる。

 傷ついた肌には、赤い雫が点々と浮かんだ。

 

 無数の小さな傷口が訴える痛みは、女に過去の痛みを思い出させる。

 首をぶんぶんと横に振ってそれを追いやろうとしても、“思い出”は否応なしに女を襲う――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女は、中位貴族、おう家の娘として生を受けた。

 女の母親は、父親の美しい妾だった。

 

 異国出身の彼女は、赤い髪に翠の瞳を持っていた。

 もとは旅芸人の一座で踊り子をやっていた女の母親は、焌燕で行われた公演で、女の父親に見初められたのだ。

 

 女の父親には、正妻が居た。

 その正妻は高位貴族の娘で、それ故にひどく矜持が高かった。

 そのため、女の父親に隠れて、女の母親を虐げた。

 女の母親が、父親によく似た目鼻立ちと、母親によく似た色彩と美貌を持った女の子を産むと、それはより激しくなった。

 

 やがて女の母親は心労によって儚くなったが、女の父親は正妻に対して、あろうことか愛妾の忘れ形見を育てるよう命じた。

 

 愛妾の忘れ形見――女は、幼いながらも目を見張る美貌を持っていたからだ。

 

 女の父親は、女が皇帝の寵妃となり、ゆくゆくは国母となって、自身の一族の繁栄に貢献する夢を見た。

 その夢を叶えるべく、高位貴族としての立ち振る舞いを完璧に身につけた正妻に、継子ままこを育てさせたのだ。

 

 正妻は、夫の命に従って女を育てた。

 憎い継子に、皇帝の妃という立場に恥ずかしくない教養と立ち振る舞いを叩き込んだ。

 

 そして、事あるごとに口にした。「お前は、皇帝の妃となり、皇帝の子を産むためだけに存在しているのだ」と。

 女の父親も、同じことを口にした。

 彼が女を放置することがなかったのは、彼が見た夢を叶えるためだけだったのだから。

 

 女が十六になった時、女の父親は、娘を後宮へ入れた。

 彼は、「皇帝の寵妃となり、皇子を産むのだよ」と微笑みながら告げて、侍女を一人だけつけて、彼女を送り出した。

 唯一付けられた侍女は、女と同い年の少女だった。

 親に半ば追い出されるようにして奉公に出された彼女だけに、女は心を許していた。

 泣きながら、女の後宮入りに反対していた彼女に、女は大丈夫と、笑いかけた。

 

 だが、蟲毒のような後宮で、女は分かりやすい憂さ晴らしの標的になった。

 心身ともに疲弊していく彼女を、若い侍女は守り切ることができなかった。

 それでも、正五品……才人さいじんの位を賜り、炴才人と呼ばれた女は、涙もろい侍女に笑いかけた。

 

 そんな日々の中。

 幸か不幸か、珍しく美しい色彩と美貌を併せ持った女は、皇帝の目に留まった。

 

 皇帝のお手付きとなった女は、位が正五品の才人から、正三品の婕妤しょうよまで上がり、皆、皇帝の不興を買うことを恐れたことから、憂さ晴らしもんだ。

 それどころか、女は寵妃としてもてはやされた。

 部屋が広くなり、侍女は増え、食事や衣服も豪華になった。

 実家からは、女への愛の言葉が綴られた文が届いた。

 侍女頭となった、たった一人の友人は、泣いて喜んだ。

 炴婕妤と呼ばれるようになった女は、涙の膜がかかった瞳を彼女に向け、笑いかけた。

 

 しかし、幸せな日々は、長く続かない。

 半年後に、女は懐妊した。

 喜ばしいことだった。

 喜ばしいことの筈だった。

 

 皇后が、同じ時期に懐妊することがなければ。

 

 皇帝の子を宿した際に行われる祝賀会は、皇后のためだけのものに変わった。

 懐妊したというのに、位は正二品の充媛じゅうえんに上がっただけ。

 祝いの言葉は皇后のみに向けられて、嫉妬深い皇后による無言の圧により、女の懐妊は表沙汰になることなく、事務的に処理された。

 実家からの文には、絶対に男児を産めとしか書かれなくなった。

 つわりの苦しみも加わり、臥せがちになった女を、侍女頭は涙ぐみながら仕えた。

 それでも、女はぎこちなく微笑んだ。

 

 先に子を産んだのは、皇后だった。

 生まれた子は、男児だった。

 御子は東宮となり、大掛かりな生誕祭が開かれた。

 そんな中、女は陣痛にあえいでいた。

 

 長時間にわたる苦しみの末、産まれたのは……女児だった。

 

 その瞬間、女の心には無数の亀裂が入った。

 ひび割れた心を満たすものは、何もない。

 実家からの文は、今度こそ男児を産めという簡素な内容で終わっていた。

 

 追い打ちをかけるように、出産によって女の体型は変わってしまった。

 腰は縊れを無くしてゆき、顔はむくみ、身体全体にはじわじわと肉が付いていった。

 そして、それに比例するようにして、皇帝の訪れはパタリとやんだ。

 

 一部の妃嬪たちからは、再び嘲笑を受けるようになった。

 それを振り払うかのように、女は侍女や下級妃嬪に対して当たり散らすようになった。

 

 侍女の中には、自ら職を辞する者が現れ始めた。

 そんな中、侍女頭は涙目になりながら、女を宥めた。

 陛下は、仕事が忙しいだけだと、何度も何度も口にした。

 女は何も言わず、無表情で、自分が産んだ子を睨んだ。

 

 それから一ヶ月後、皇帝が女の宮を訪れた。

 女は、子を産んで以来、最も豪華に着飾り、夫を迎えた。

 皇帝は、そんな彼女を一瞥し、こう言った。

 

 「……余は美しい女が好きなのだ。近寄るな、この醜女しこめが」

 

 皇帝はくるりと踵を返し、側仕えの宦官を引き連れて去っていった。

 自身の寵妃――否、寵妃を、醜女だと罵り、吐き捨てて。

 自身の公主を見ようともせずに。

 

 パキッ。

 パキパキ、バキバキ、バリバリ、バラバラガラガラガラガラ……

 

 そんな幻聴が、聞こえた。

 女と、その侍女頭にのみ聞こえたその音は、女の心が壊れていく音にほかならない。

 

 女はゆっくりと、後ろにいた侍女頭の方を振り向き――彼女が腕に抱いていた、玲藍と名付けられた娘をひったくり、その細い首に手をかけ、じわじわと力を込めた。

 

 ギャアギャアと泣きわめく娘を気に留めた様子もなく、女はその首をぎゅうぎゅうと締め上げる。

 

 「止めて!」

 

 女より早く正気を取り戻した侍女頭は、そう叫ぶや否や、赤子をひったくった。

 吾子あこを縊り殺そうとした女は、なおも娘へと手を伸ばす。

 真っ赤な唇からは、こんな言葉が零れた。

 

 「この子のせいで……この子のせいで、わたくしは陛下の寵愛を失ったっっ!全て、全てこの子のせいでっっ!!」

 

 それから起こったことは、誰もよく覚えていない。

 

 ただ……それ以降皇帝が女の宮を訪れることはなく、女は心理的な打撃を受けたことによって食事をすることを拒み、骨と皮ばかりの瘦せこけた姿となったこと。

 そして、玲藍を逆恨みした女が、彼女と顔を合わせる度に彼女を傷つけようとするようになったこと。

 玲藍の乳母となった侍女頭が、身を挺して彼女を守るようになったこと。

 

 それらのきっかけとなったのは、その一件であることは、確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、十六年。

 である娘を傷つけることで溜飲を下げていた女は、ここ四年ほど、苛立ちが溜まりに溜まっていた。

 

 あれは四年前のいつだったか。

 

 娘を殴ろうとすれば、常に何かに阻害されて、傷一つ付けることすらできなくなった。

 

 そのくせ、娘の乳母は毎回懲りずに自分を止めようとするのだから、腹立たしいことこの上ない。

 歪んだ怒りを募らせた女は、とあることを思いつく。

 

 「……煩わしいものは、壊してしまえばいいのよ」

 

 そう、ひとり呟いた女は、棚の奥から一振りの短刀を取り出した。

 すっと鞘から抜いて、刃を光にかざす。

 光を受けて鈍く輝いた刀身の端には、女の生家である炴家の紋章が彫られている。

 

 これは、彼女が七つのときに、父親に渡されたものだ。

 

 「もし、皇帝陛下以外の男に辱しめを受けた時には、清い身であるうちに、これで速やかに自死しなさい」

 

 女の父親の声が、蘇る。

 だけど、それで傷つくことはない。

 

 それが、当たり前だったからだ。

 

 傷つくことはないにせよ、いい思い出とは言い難い出来事ではあったが、この短刀は使えそうだ。

 口元に狂気的な笑みを浮かべて、女は自室を出た。

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