Ⅲ 新たなホーム

 外からの光がほとんど届かない薄暗い廊下には粉塵が微かに立ちこめる。ひとたび歩けば靴と砂が擦れ合う音が壁に反響して響き渡った。

 シリア北部、アレッポ旧市街地区にイスラム教の礼拝堂であるウマイヤド・モスクという建造物があった。モスクは回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持つ形が基本形であり、ウマイヤド・モスクはその中でもキリスト教の教会と同様の構造である多柱式を採用していた。そのモスクに付随してある「塔」を意味するミナレットは礼拝時刻を告知する時計台の役割を持ったものだったが、いまは存在しない。塔は政府軍とその反体制派の争いの最中に倒壊し、瓦礫の山と、かろうじて破壊を免れた塔の一部が現在は残存している。

 ハルは兼ねてからこの倒壊したミナレットに注目していた。シリア国民の約十パーセントはキリスト教徒であり、その大多数がアレッポ付近に点在していることに付け込んだのである。


 ハルの計画は彼女との出会いから五年の月日を経て完成しようとしていた。


 瓦礫の山の奥深く、道なき道を進んだ先には新造の両開きの木製扉が備え付けられていた。周囲の瓦礫に溶け込んだ黄土色の配色は政府軍から存在を隠すためである。扉の先には外の光をほのかに取り入れた空間性のある教会を再現し、一段高い位置には十三歳になったケイトリンが鎮座していた。

 正確には、聖母マリアがとして再臨したことになっている。だが今時、生まれ変わりを唱えたところで戯言たわごとに過ぎないと嘲笑されるのが関の山だ。

 ハルとケイティが初めてシリアの地に降り立ったとき、二人は各地にあるカトリック教会を練り歩いては彼女のコンプレックスであり最大の特徴である血の涙を見せまわった。熱心なキリスト教信者は彼女の存在に驚嘆し、そして恐れおののいた。はじめこそケイティは見世物にされているようで大変嫌がったが、血の涙を見た人々が次々に旧ミナレット教会──セカンド・カミング教会──に訪れる様子を見て、彼女は必要としてくれる人々の多さに自信を持つことができるようになっていた。「血の涙」が彼女の武器となった瞬間だった。

 ハルは礼拝の際、月定献金として収入の十分の一以上、礼拝献金として収入の五十分の一以上を納めるものとした。基本的に金額は自由である場合が圧倒的に多く、ハルもそれに準じて自由としていた。だが、人々は必ずといっていいほど想定された金額以上の献金を献金箱に投入していた。ハルは不満こそなかったがこの現状に疑問を抱いていた。その理由が明らかになったのは教会設立の一年後である。

 シリアは紛争が多いことから、信者の身内が死傷するケースが後を絶たなかったのである。信者は生活費を極限まで削り、その分をマリアの生まれ変わり――もとい、ケイティに捧げることで恒久的な平和を望んでいたのである。

 捧げるといっても、聖母マリアは現イタリア領トレントで一五四五年に召集されたトリエント公会議において、カトリック・プロテスタントともに崇拝の対象ではないことが確立されている。よって彼女に金銭を貢いだところで本来あるべき姿からは遠のいているのだが、信者たちは執拗しつように金銭を貢いでいた。すがることができるのなら何にでも縋る。彼らの精神が困窮を極めていることは明白であった。


「ねえ、ハルおじさん」


 朝のミサが終わり、信者らが部屋から出ていった直後だった。祭壇に設けられた椅子に腰掛けたまま、ケイティは虚ろな顔つきでハルの顔を覗き込んだ。


「なんだい、マリア」


「もう、二人のときはマリアはやめてください」


 普段なら苦笑するだけだったケイティは、今回ばかりは真剣に落ち込んでいた。ハルもその様子に不審を抱き、優しい微笑を見せたまま目線を彼女の目の高さに合わせた。ケイティは俯きがちにぽつりと呟く。


「私たちがしていることは正しいのでしょうか。私は嘘をついています。私はマリア様ではありません。それでお金を貰うことに、おじさんは罪悪感を覚えないのですか」


「ケイティ、君の言うとおりだ。私もね、嘘をついてお金を貰うことには罪悪感を覚えているよ。けれど、彼らの立場になって考えてみてもほしいんだ。君を慕う彼らだって、君が本当にマリア様の生まれ変わりでないことくらい理解しているさ。その上で君を必要としている。彼らは紛争で家族を亡くし、行き場のない思いを内々に溜め込んでいるんだ。それはとても苦しいことだってことはケイティ、君も経験しているだろう? 彼らは君と同じ、わらにも縋る思いで聖母マリア──神の母──という存在に、傷ついた心を癒してもらいにきているんだよ」


 そこまで話したところでケイトリンも「なるほど……」と頷いて納得していた。ハルは自分で「本当に詐欺師の才能があるのではないか」と考えると口許が歪むのを抑えきれず、微笑みと誤魔化して笑顔をケイトリンに向けた。


 その時である。一人の男が教会の正面扉から豪快に姿を現した。

 男は肌色の麻のマントを羽織っていたが、その上からでも目立つ屈強な体はとてもキリスト教徒には見えない。軍人だと紹介されたほうが納得できる、とハルは瞬時に感じた。


「何者かね、君は」


 ハルが一歩前へ進み出ると、その男は全身を覆っていた麻のマントをひるがえした。男は「AK-47」自動小銃を両手で構えている。その切っ先には銃身を利用した「6kh2」と呼ばれる刃渡り二百ミリメートルの銃剣も装備されていた。祭壇の上でケイティの体が恐怖で一瞬跳ね上がった。背筋には感じたことのない大量の汗が流れ、ケイティは汗が滴るたびに音が鳴っていないか心配するほどだった。ハルも前に出した足を反射的に一歩後ろに後退させていた。


「聖母マリアの生まれ変わりがここに居ると聞いた。それはお前か」


 男が銃口をケイトリンに向けると、ハルは恐怖を押し殺して銃口の軌道を遮るように彼女の前に躍り出た。


「君は何者かと聞いている」


 ハルは熊を相手にする時と同じく、堂々とした態度で銃を持った男に対峙した。男はイラついた様子で唾を床に吐き捨てると「バセット」と答えた。続けてこうも言った。「俺は聖母マリアを神の母とは認めない」と。

 ハルはその言葉を聞くと思案を巡らせた。そして思い当たった単語を確信を持って答えた。


「ネストリウス派、か」


 バセットはふんと鼻で笑うと、次の瞬間、ケイトリンが座る祭壇の椅子目掛けて発砲した。ケイティは短く悲鳴をあげたが、幸いにも銃弾は教会の壁の一部を剥ぎ落とすだけに済んだ。


「ここ最近、マリアの生まれ変わりだとかいう女に多額の献金をしている奴等を多く見かけるようになった。マリアがイエスに神格を与えたというならまだしも、我々はそのように考えていない。貴様らはジリ貧となったシリア国民を儲けのためだけに利用している。俺はそんな悪事を許すわけにはいかない!」


 バセットは怒り狂ったように叫び終えると、無作為に銃弾を二人に目掛けて発砲した。

 無数の銃弾が教会の内装を破壊し、バセットの狂喜に満ちた罵声とケイティの悲鳴は銃声に掻き消された。ハルは彼女を庇うように胸に抱えて床に伏せたが、無残にも足や背中に銃弾が撃ち込まれる。断末魔の叫びさえも銃声の前には無音となり、ケイトリンの耳に届くことはなかった。

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