第3話 焼き鳥屋

 家を出ると、太陽が沈みかけていて、空がピンク色と水色に分かれていた。

 しばらく歩いて店を吟味した後、焼き鳥屋「たつトリ」に行くことにした。いつも迷ったらここに入る。店に着くや否や注文をした。ビール中ジョッキと煮卵、ポテトサラダ、砂肝、つくね塩、皮塩、餅ベーコン串、焼き鳥丼。ここのメニューはもう覚えている。

 運ばれてきた料理を前にすると、すごくお腹が空いている事に気がついた。思えば、昼からお菓子しか食べ物を口にしていない。空腹状態の二人が黙々ともぐもぐし始める。ガヤガヤした店内に、黙々とした自分たちがいる。浮いているかと思いきや、逆に空気のような存在感で、誰も自分たちに気がつかないみたいだ。


「がっついてんな」

「んぐ。」びっくりして変な声が出た。

声をかけてきたのは、隣の席のおじさんだった。口いっぱいにご飯と焼き鳥を頬張ったまま顔を上げると、少し引いたような目で見られた。

「リスの真似か?可愛くないぞ。」

「ふふぅはふ!」反論したいが口がメシで埋まっていて、うまく喋れない。

「可愛くないぞ……」

勝手に話しかけてきたくせに、失礼なおじさんだ。しかも落胆したような顔をしている。やっぱり失礼だ。言い返すために口を空っぽにしようとする。たくさん詰め込んだから、ひたすら咀嚼し、ついに口があいた。

「いや、可愛さとかじゃないので。お腹が空いてるだけですから。」

「まあそんなに急ぐなよ。喉に詰まるだろ。それに、焼き鳥は逃げない。生きてる鳥と違ってな。」

「そうですけど……」

 おじさんは、佐々木と名乗った。年齢は三十八歳と微妙に「おじさん」と呼びにくい。見た目は四十五歳くらいだったので、実年齢を聞いた時は驚いた。

佐々木さんは、タクシードライバーをしているらしい。いろんな乗客をみているうちに、その人が面白い人かどうか分かるようになったという。こういう場合、良い人か悪い人か分かるようになるというのが普通だろうに、佐々木さんはそうではないらしい。面白いか、面白くないか。そこに良い人か悪い人かは関係ない。自分たち二人は、佐々木さんによると「面白い」らしい。少し馬鹿にされている気がする。

 それからは、佐々木さんと話しながら呑んだ。自分は酔うと口が軽くなるが、明石は酔ってもあまり変わらない。明石は酔っていても酔っていなくても、的を射た発言が飛び出すことが多く、その的確さにこちらの酔いが覚めることさえある。佐々木さんに関しては、初対面なので全くつかめない。声をかけてきた感じだと、もともと口が軽いタイプのようだ。酔っていても酔っていなくても、口が重くなることは無さそうだ。

 佐々木さんとは、実に他愛もない話をした。空の話、そこらへんに生えている植物の話、道の話、音の話。話のタネとしては、本当に取るに足らない、つまらないものだった。でも、自分は楽しかった。

 こんな内容でも、自分には話すネタがあったのだ。最近はムスカリの花が咲いていて、匂いを嗅いだら名前の通りいい匂いだった、とか。冬は星がたくさん見えて好きなのだ、とか。散歩をしていたら知らなかった道を見つけた、とか。その道を進んだら公園があって、思わず逆上がりをしてしまった、とか。逆上がりをしたら少し気持ち悪くなった、とか。

 こんな話は誰も興味がないだろうと思って、これまで話さずに貯めてきた話だった。初めて会った人に、こんなにどうでもいい話を聞かせているのが不思議な感じだった。でも、自分は楽しかった。

「市井とこういうどうでもいい話、あんまりしてこなかったけど、聞いてるのめっちゃ楽しい。楽しそうに話すのも、見ててなんか嬉しい。」

 明石の言葉が、なんだか嬉しかった。受け入れられた感じというか。自分らしさを見せられたみたいな。

 一方の佐々木さんは、ただ相槌を打っていた。聞いているのか聞いていないのか、よく分からなかった。けれど、自分の話を一度も止めなかったし、話の途中でトイレに行くことはなかった。その態度が嬉しかった。無駄に肯定されることもなく、否定されることもなく、ただそれで良いのだと言われているようで。とても、嬉しかった。

 それからずっと、二人があまりに自分の話を止めないので、どうでもいいことをたくさん話した。「そんなに世の中をちゃんと見たことなかったし、考えたことなかった。」という明石の言葉が意外だった。明石は自分より、もっといろんな物事をいろんな角度で捉えて、自分のものにしていると思っていたから。

 どうでもいいことを話して、どうでもいいことを聞いて、有益な情報なんて何もない会話をした。佐々木さんは、その間ずっと自分たちの話に耳を傾けているようだった。

 しばらく話してふと時間を見たら、もう日付が変わる時間に近づいていた。六時間くらい経っている。ちょっと喉も枯れてきた。

「あれ、もうこんな時間だ。」

「ほんとだ、そろそろ帰る?」

「帰るかー。佐々木さん、そろそろ帰りますね。」

「おーそうか。いいラジオだったんだけどなあ。」

「人の会話をラジオだと思って聞いてたんですか。」

「そう、気取ったラジオよりずっと面白いよ。こうやって人の本音を聞いている方が。」

「まあ、なんでもいいですけど。それじゃ、また。」

「さようなら。」

「じゃあな。」

 そのまま解散し、明石を駅まで送ってから、家に向かう。

 帰路。静かな道。冷たい風。歩きながら考える。

 今日は、本当に楽しかった。明石と一歩近づいた気がする。いや、一歩どころではなく、五〇歩も百歩も、もしくは、それ以上に近づいた。それは、自分からの歩み寄りだったかもしれないし、明石からの歩み寄りだったかもしれない。もしくは、その両方かもしれない。

 そんな細かいところはどうでも良くって、明石と今まで以上に近づけたことが大切だと思う。


 本音を聞いている方が楽しい、という言葉が頭に残っている。佐々木さんは、自分たちの会話を本音だと捉えていた。確かに、何を言っても嫌な顔をされないから、いつもより自分の思っていることをたくさん話した感じがする。これまでにないくらい。

 自分のこだわりも、視点も、考えも、取るに足らないものだと思っていた。それらは全部、自分の言葉で表された本当の気持ちだった。

 しかし、「自分」なんて他の人からしたら、邪魔でしかなくて、ただただ面倒臭い人間だと思われるだけのはずなのだ。自分が何かを主張するたびに否定され、いやがられてきた。だから、「自分」を出さないようにして生きてきたのだった。

 それで人間関係が上手くいくなら良かった。でもいつもどこか、自分を分かってくれていない感じがずっとあった。それでも、これからも同じように生きていくものだと思って受け入れてきた。

 だけど、今日は違った。なんでもない話だったかもしれないけど、自分の好きなことをたくさん話して、受け入れられて、もっと話したくなって話して、しかも面白いと言ってくれた。そこで見逃せなかったのは、自分はそれがとても嬉しかったということだ。本当は、他人に自分のことをもっと知ってほしいと思っているのだ。これは、これまで押し込めていた感情だった。

 思えば、ご飯に行く前に明石とお菓子を食べながら話した、工藤の話は、お互いの意見をうまく交換できていた感じがする。生死観なんて今まで誰とも話したことがなかったし、比べるものがなかったから、気がつかなかった。あの時はなんとも思っていなかったが、明石はいつもより少し楽しそうだったかもしれない。もしかしたら、自分もいつもより楽しかったかもしれない。あの会話にだって、本当の自分が現れていたのだろう。

 なんだか興奮してきて、思わず早歩きになる。

 これからどうやって人と話そうか。これまでは自分の話をしてこなかったから、どうして良いのか分からない。考えてみたところで、全ては机上の空論で、本当のことはやってみなきゃ分からないのだから、分からないのは当然だろう。

 それならまず、信じることから始めてみることにしよう。自分の考えは周りに受け入れてもらえるものだ、自分は自分で良いのだ、と。今日あった時間が物語るように、自分の意見を認めてくれる人は絶対にいるのだ。


 自分の考えを受け入れてほしいとだけ思っていては何も伝わらない。まずは、自分が考えを発して、それを受け入れてくれる人を見つければ良いのだ。そうか、そっかあ。簡単なことだ。それに気づいたとき、絶望と希望がほとんど同時に、正確には、絶望の方が少し早く、心の中に生まれた。

 世界はそこまで狭くない。狭かったのは、自分の頭の中だった。これまで気がつけなかった自分の愚かさと、愚かでありながらここまで生きて気がつけたこと。

 家の前まで来た。鍵を開けて、いつもと同じ動作といつもと違う気持ちで、自分の部屋に靴を脱いで入った。

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