第32話 砂を吐く

  仕事を辞め、女の骨を墓に埋め、大戸の母を死の淵へと追い遣った後、私はついに生きる術を失くし始めた。術、という言い方は格好付けて言い換えるならば「意味」となるのだろうが、そもそもその意味ならば女が死んだ時点で喪失していた。


 完膚なき空虚。身体はあっても、心がまるで空になってしまったようだった。

 今ここに意識と共に居る身体は、いずれやって来る死を覆っている気ぐるみに過ぎない。つまり、もう私は死んでいるのだ。腐臭が立ち込め、辺りに気付かれる前に早くせねばと思えば思うほど、それに反して指先一本動かすことすら億劫に感じてしまうのだ。そのうち食べるのも、飲むのも億劫になり、起きている時間の全てが私に苦痛を与え続けた。


 この部屋を久しぶりに訪れる者がいた。インターフォンが鳴る音は中々止まず、私は居留守を決め込んだ。すると、コンコンとノックの音が部屋に響いた。ノルマを達成出来ない新聞の勧誘か何かだろうと思い、私はそのまま放って置くことにした。すると今度は野太い男の声がし始めた。


「おーい、俺だよ」


 聞き覚えのあるその声に、私は布団から這い出て魚眼レンズを覗き込んだ。かつての職場の先輩、福山がそこに居た。部屋に招き入れると、部屋の中を見回して福山は顔を顰め、苦い顔を浮かべて言った。


「うわー、荒れてんなぁ」

「すいません」


 私の部屋に適当に座らせて、ペットボトルの茶を出した。「わりぃ」と言いながらそれを一息で飲む彼の体格は、以前よりもさらに大きくなっているように見えた。


「村瀬君さ、今仕事してんの?」

「いえ、今はもう何も」

「何も!?マジかよ、勿体ねぇ」

「正直、それどころではないというか……」

「まぁ、そっか。奥さん、残念だったな」

「えぇ、まさかって感じで……」

「……大戸の事で何回か警察来たよ。金田と面会行ったんだけどさ、拒否られちまってさ」

「そうなんですか。金田、元気にしてますか?」

「元気も元気だよ。あいつ今度主任試験受けるんだぜ」

「へぇ、あいつが……」

「ゆっこちゃんと結婚してさ、子供も産まれるんだよ」

「あいつら結婚したんですか?子供もかぁ」

「ま、予想通りデキ婚だよ」

「でしょうね」


 それから三十分ほど他愛もない職場の話をして福山は帰って行った。帰りがけに「落ち着いたら飲もうぜ!」と、いつもの台詞を言い残して行ったのが彼らしい、と感じはした。ただ、聞いた話の何もかもが遠い国の話のように思えて不思議だった。数年前、私達は同じ場所で働いていたはずだった。

 一人は殺人鬼になり、一人は妻を殺され世間から塞ぎ込み、一人は向上心を持って新しい家庭を築こうとしている。


 福山に「皆から」と渡された手紙のようなものは封も開けずにゴミ箱に放り投げ、それきりになった。もう戻る事のない職場には、何の未練も残されてはいなかった。

 それから一週間程して、深夜近くに福山が突然やって来た。


「飲もうぜ!」


 幾ら職場の先輩だったとは言え、連絡もなしに突然夜中にやって来た彼を追い返そうかとも思ったが、私は彼を受け入れた。二人でビールを開けたが、私は何を話していいかも分からず福山の愚痴めいた話や昔話にただただ、耳を傾けるしかなかった。結局朝方近くまでそうしていたが、私はふと疑問に思い、福山に尋ねてみた。


「福山さん、仕事大丈夫ですか?」

「平気平気!飲酒上等だよ」

「え、まさかこのまま仕事行く気ですか?」

「ったりめーじゃん!」


 朝日が昇る頃、顔を赤くした福山は帰って行った。帰り掛けに「病院行けよ」と言われたが、私は曖昧に頷くしかなかった。精神を病んでいるとでも思われたのだろうが、実際そうだとしてもこれから先、長々と生きるつもりも意志も無かったのでどうでも良かったのだ。

「皆、心配してるぞ」と言っていたが心配された所で何をどう振舞えばその心配を晴らせるのかも分からず、元気な振りをすればそれこそ空元気だと思われそうだった。新しい仕事先を見つけ、新しい伴侶を見つけ、大戸の死刑判決が出た頃にマスコミの前で


「この日を願っていました」


 と涙でも流せば彼らの心配は多少は晴れるのだろうか。良かったと言って笑ってくれるのだろうか。例えそうだとしても、その頃にはもう彼らの中で私の存在自体を忘れているかもしれないと言うのに。それなのに、私に何かを求めるのはもう、鬱陶しいとしか思えずに私は再び部屋の中で塞ぎ込み始めた。いい加減、忘れて欲しかったのだ。 


 塞ぎ込んでいる間に季節が過ぎ、女が残した遺産による貯金が減り始めた雪の降るとある日、再びインターフォンが鳴らされた。また福山が来たのかと思うと、煩わしさの余り私は不貞寝をしようと決め込んだ。こんな雪の中、わざわざ来てもらっても私は追い返す事しか出来そうにない。

 しかし、今回はノックではなくドアを叩きつけるような音で私は立ち上がった。ドンドン、と激しくドアは叩かれ続けた。

 福山がふざけてそうしているのだろうと、そう思い小言を言ってやろうと玄関を開けると、そこには息を切らした金田が立っていた。髪は短く刈り上げられ、金髪ではなく黒く染められていた。

 私を見るなり金田は肩で息をしながら、悲しげな表情で私に告げた。


「福山さんが死にました」


 雪は静かに、しんしんと降り続けていた。

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