第31話 アクィエルの足跡
ここに心地の良い冷たい風は吹いて来ない。住んでみて分かった事が沢山あった。嫌な面を言えば潮の匂いの混ざった風は案外疎ましい事や食べ物に関しては絶望的と言って良いほど口に合わない事が挙げられる。しかし、この島の魅力はそれら全てをカバーする程の美しい景色の数々に出会える事だろう。特に茅打ちバンタから見下ろした崖と、急に降り出したスコールが織り成した景色は大自然の強さと優しさを私に感じさせた。私は沖縄に着く前に、大戸の母親が住むアパートのすぐ近くに、短期滞在者向けのアパートを借りていたのだ。
大戸の母親のアパートへ二回目に訪れた際、彼女は私を見るなりひどく神経質そうな怯えた表情をして見せた。借金取りの再来のような、強烈なフラッシュバックでも起こしたのだろうか。
「あの……村瀬さん、しばらくこちらにいるんですか?」
「あ?住んでるんだよ」
「そうですか……」
「ここの事はマスコミにはバラさねぇよ。時間の問題だろうけど。珈琲ないの?」
「さんぴん茶ならありますけど、あ、出しましょうね」
「それ飽きたからいらねーわ」
「あの……あの後、何とお詫びをしていいのやら、色々考えたんです……」
「あ、土下座はもういらないよ。何だか沖縄の海を見てるとね、傷付いた心も多少和むんじゃないのかなぁって思ってね」
「海は……宝ですから」
「夏用のバスクリンみてぇな色してんなぁって、毎日眺めては思ってますよ」
「……あの子に、罪は償わせますから……お約束します。だから」
「それを決めるのはあんたじゃないでしょ?司法のやる事でしょ。何言ってんですか」
「だったら……」
「ついでに言いますけど、金も要りませんよ」
「じゃあ、何で、私にこれ以上、何の用事あるんですか?もう私に何の……」
「ストップ。おいおいおい、冗談じゃねーぞ?息子殺して自分も死ぬんじゃなかったっけ?」
「……」
「今「何の関係もない」って言おうとしたろ?なぁ?」
「そんな事、ないです」
「ふーん……」
私はその後も何度か大戸の母親の元を訪れては、精神的な苦痛を小出し小出しに与え続け、追い詰め続けた。すると、幾らチャイムを鳴らしても応答しない事が増え始めた。しかし電気メーターだけはしっかり回っているのを確認して、私は久しぶりに井筒と、幾つかの週刊誌と連絡を取った。井筒は私の行動を大変危惧していたが、私が傷心の為に海の見える場所で生活をしていると告げると、彼はそれを低の良い口実なのだろうと機敏に察知した。それ以降、彼は私を危惧するような発言はしなかった。彼はやはり、狡猾な大人だったのだ。
それから数日経つと、日に日に記者のような人物があのアパートを訪れるのが目に入って来るようになった。その間も、私はアパートを訪ねていた。アパートの近くで偶然井筒と鉢合わせになった際には、声を掛け合う前に何故か共に笑い合った。彼は「確証となるものは残さないで下さいね」と私に釘を刺した。私がこの土地に来ている意味も、どことなく分かっていたのだろう。
ある週刊誌に「独占告白!」と見出しのついた記事が大きく出ていた。それは井筒によって書かれたものだった。流石、人の心に土足で上がり込む技術に長けている男だ。他の記者達は皆、惨敗したようだった。
その記事が出た数日後、私は夜の風に当たろうと思い、静かな夜の街に散歩に出た。するとあのアパートの前に救急車やパトカーが群れを成しているのが見え、私はその途端に一仕事終えた気分になった。しかし、何の感動も生まれなかった。翌日井筒に確認を取ってからその事実を土産に、女と過ごしていた元の棲家に帰った。
大戸の母親はあの晩、硫化水素で自殺をしたのだ。
刑法によってたった一人で死ぬであろう息子をこの世に残し、たった一人で死んで行った。
私が帰ってからしばらくして、大戸の公判の様子がテレビニュースで流れていた。被告の大戸はイラストとなって登場したのだったが、何故か少し小太りに描かれていて余り似ているとは思えなかった。
「僕は沢山の人を殺しました。どうせ僕はこのまま死刑になります。なので、次はあなたが殺す番です」
裁判官に向かってそう叫び、指差したそうだ。そのニュースを見てふと思い立ち、私は明くる日拘置所に一人で向かった。
薄汚れたアクリル板の向こうに座る大戸の目は、完全に光を失くしていた。
「お母さん、亡くなったんだってな」
「はい……死にましたね。でも、当然でした」
「どう思う?おまえの所為だよな」
「でしょうね。どうせ殺すんだったら、あいつもぶっ殺しておけば良かったって、そう思ってます」
「息子だから?」
「はい」
「そんな権利ねーよ。もし母ちゃんが他の誰かに殺されたらって考えたら、どう思うんだよ」
「……その時は一瞬スカッとしたかもしれないですね……分からないっすけど」
「そんなもんだろな」
「はい、そんなもんす」
それきり私達は黙り込んだ。無音の空気と、暑くも寒くもない空間の中で、時間だけが淡々と流れて行く。すると、大戸が溜息交じりの小さな声で「また殺したいなぁ……」と呟いた。私は冷静でいようと努めて、こう言った。
「沖縄の海、綺麗だったよ」
大戸が顔を上げ、一瞬だけ無邪気な笑みを浮かべた。人を意図的に殺めた後にこうやって素直に喜べる人間を、私はやはり赦すことは出来ない。
「村瀬さん、行ったんすか?」
「あぁ。おまえのお母さんの家のすぐ近くに滞在させてもらったよ。挨拶もさせてもらった」
「え……何でですか、偶然ですか?」
「おい、何焦ってんだよ」
「別に焦ってないっす」
「偶然かどうかなんてどうでも良いだろ?俺の嫁殺したのだって、そうなんだろ?じゃあ、いいだろ」
「それ、どういう意味ですか」
「こっちが聞きたいって言っただろ。偶然だったのかよ」
「それは、分からないっす」
「あっそ。俺はまた海見れるけど、おまえはもう見れないからな。海な、バスクリンみたいな色で綺麗だったよ」
「そういう風に見えたんすね、村瀬さんには」
「あぁ」
「……やー、いつか死なすよ」
「は?これから死ぬのはおまえだろ」
「違いますよ、マジにりー……村瀬さんはそういう目、してるんすよ。もう、俺と変わらないじゃないですか」
「殺人犯と一緒にすんなよ」
「違いなんてないっすよ」
「人殺しが説教してる暇あるなら懺悔でもしてろよ。おまえら親子揃って何から何まで他人事かよ」
「……ナイチャーの癖に本土でわーばいしないで下さいよ」
「……日本語喋れよ、カス」
拘置所を出て、私は女の眠る墓へと向かった。街の外れにある、緑に囲まれた小高い場所に墓は建てられていた。ここに全てが埋葬されるのであれば、どれだけ楽な事だっただろう。私は私が行った事を、墓前で女に報告した。私の行動は誰の救いにも、誰の喜びにもならなかった。ただ、殺人犯の心が一瞬揺らいだに過ぎなかったのだ。それも、どうせこれから司法の力によって死が待ち受けているだけの男の死だ。
「おまえ……アイツと会った事あったの?」
当然、返事は無い。風すらも吹かなかった。それが女の答えなのだろうか。
「正しいなんて思ってないよ……でも、少しでいいから、何かしたかったんだよ……何か……何で、何でこんな……」
私は泣いた。咽び泣いた。一人そうやって泣いていると、静かな風が辺りを吹き抜けて行った。
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