第30話 震える鼓膜
二つに分かれた道がある。そのどちらかを進み、しばらくするとまた道が分かれている。しかし、今度は三つ。そしてまたしばらく進むと再び道が分かれ始める。分岐の数は道を進めば進めば進むほどに増えて行くのだが、ある時になると突然分岐がなくなり、道は一本のまま真っ直ぐ伸びて、もう後を戻ろうにも自分が何処から来たのか、その時にはもう今までの道順をさっぱり、忘れているのだった。道の辺りも上空も星一つ無く真っ暗で、前方の遥か遠くの空だけが真っ赤に染まっている。そちらの方から幾つもの悲鳴や泣き声や呻き声が聞こえて来る。これから先、分岐が無ければそこが私の行き着く先なのだろうか。だからといって、後に戻る方法を考える面倒臭さは私の身体と心を心底疲弊させるのだった。私は聞くに耐えない不気味な声のする方向を目指し、歩いている。赤黒い空に繋がる、おぞましい地平線の果てを。
頭を上げた大戸の母親に、私は笑みを与えた。安心して、私とお話をしましょう。そう言った意味の笑みだったが、安心してもらう気などさらさら、微塵も考えてはいなかった。
リビングテーブルに座ると、私は饒舌になった。大戸という人間の仕事に対する真面目さ、勤勉さ、如何に仕事が出来て優秀であったかを殺人犯の母親に向かって言って聞かせた。すると、最初は畏まっていた母親の顔が「本当に、もう……」などと言いながらも段々と解れて行くのが手に取るように分かったし、実際私はその表情の一喜一憂を手に取っていた。
「あんな事さえなかったら、大戸は出世間違いなしだったと思います。本当に立派な奴でしたよ」
「ねぇ……連絡さえくれてたら、もう少し話も聞けただろうし、そうしたらあんな馬鹿な真似しなくても済んだかもしれないのに、人様に迷惑掛けて、本当馬鹿な息子で……」
その馬鹿を産み落とし、心を歪ませた者が言う台詞なのだろうか。大戸はおまえから逃げ出したんだ。連絡なんかくれる訳ないじゃないか。それに、おまえは人の人生を、それこそ息子一人の人生をどうにかしたり、引き止められる実力など持ち合わせていないじゃないか。息子一人を家に残し、借金取りから逃げ回り、帰って来るなり息子を家から追い出し、電気代も払わず灯りの点かない家で男とセックスするしか能のないおまえに、一体何が出来るのだ。あ、壊すのは得意だったな。失敬。
「お母さん、正直……大戸はたまたまあぁいう事件を起こしてしまったんじゃないのかな、と思うんです」
「いえ、それは……そう思うものですか?」
「えぇ。私も含めてですが、彼を孤独にさせてしまった状況が良くなかった。もし逆の立場だったら、私だってどうなるか分かりません」
「そうですか?私、実の所……あの子の全部が全部、悪いなんて思えなくてね……」
そうやって、逃げられる内に逃げれば良い。私はすぐに追いつくのだから。
「あの子が中学生の頃だったかな、私がパートから帰って来たら、あの子はいなかったんだけど玄関にカーネーションがぽつんと置いてあってね……」
「そうだったんですか……実は優しい面もありますよね。仕事でも後輩の面倒見が良くて、評判でしたよ」
「あの子、根は本当優しい子だったんですよ……」
そうだ、そうやってもっと母親らしく大戸を弁護してみるんだ。もっと、もっとだ。息子を想い、慕う、柔和な微笑みが出来るんじゃないか。
現実の大戸は金田がミスをする度に「クソだ」「死ね」と罵り、決して他部署の人間とは関わろうとしなかった。同じ部署にゆっこが入って来た時でさえ、挨拶の一つさえ交わさなかった。無論、彼女が些細なミスをやらかした時も、知っていながらフォローさえしなかった。面倒を見る所か、拒絶だ。そして、ある日突然姿をくらました。
私は過去を塗りに塗り替え、知らない記憶を生み出し続けながら、大戸を褒め称えた。
「アイツは些細な事にも気が付けるタイプの人間でね、面倒見も良くて仕事が丁寧だって言われてたんです」
「あの子はやっぱりそうだったんですね……昔からしっかりしててね、自分で何でも出来ちゃう子だったんです……」
何でも出来る様にさせてしまったのは親の責任を放置してセックスばかりに気を取られていたおまえが生み出した結果に過ぎない。学校で居場所を失くし、人と関わる事を避けるのがいつの間にか最大の安全策だという術を身に付けさせた事にすら、この母親は気付いていない。
「何でも出来る子だったのにね、本当あんな事をしてしまって……出来る事ならこの手で、あの子を私が責任を持って殺してしまいたいって、何度も思って」
それは正に夢のようなおとぎ話だ。素敵過ぎて反吐さえ出なかった。圧倒的に素晴らしい景色を観た時、人は感動すらも忘れて言葉を失う事がある。その真逆もまた、存在するのだ。
心底自分の事しか考えられないゴミのような女だ。息子に殺された者達、残された者達への気遣いなど、そこにはまるで無いのだろうし、感じる事は出来なかった。
すると、母親は突然涙を流し始めたではないか。
「あの子殺してね、私も死のうって……そう思って……」
「そこまで思うのは、母親としての責任ですか?」
「はい……」
「そこまで責任を感じていらっしゃたんですね、正直、毎日辛いでしょう?」
「ああっ!」
そう叫び、母親はテーブルに突っ伏して嗚咽を漏らし始めた。何と滑稽なんだろうか。私は思わず笑いが込み上げて来て、自然と声が漏れそうになって咳払いで誤魔化した。お笑い芸人の良く出来たコントの数十倍は面白かった。
「ああっ!」
何がああ、だ。突然訪れた笑いは憎しみじみた感情を引き連れ、私の心を急速に静かにさせた。女が死んでから感情の起伏が少ない分、感情の収納の仕方がだいぶ下手糞になっていたのだろう。
「お伝えしなければならない事があるので、それを言って今日は帰ります」
「取り乱して、すいません……」
まだ取り乱してもらっては困る。それはこれからなのだ。
「もう一度、私の名前を言います。覚えておいて下さい」
「え?あぁ、あの、はい……」
「大戸の元同僚の、村瀬ヒロトです」
「はい……」
「村瀬ですよ」
「えぇ、覚えました……」
「何も思い出せませんか?」
「あの、以前会った事ありました?でも、お会いした事はないですよね……」
「ないんですけどね、そうですよね」
そら見た事か。所詮、この程度に過ぎないのだ。ピンとすらも来ていない。その程度の人間が母親だからという理由で大戸の罪を裁こうなどと、おこがましいにも程があるじゃないか。思った通りだった。
私は「微笑」という顔の造りを意識しながら、母親に告げた。
「会った事はないんですけど、縁はあったんですよ」
「あの、どんな……?」
「私の妻は、あなたの息子に殺されました」
事実をありのままに伝えると、母親の口元が「お」の発音のまま、止まった。おめでとうございます、とでも言うつもりだったのだろうか。お世話になりました、だろうか。驚愕し、血の気の引いたその顔を私は鑑賞する余裕があった。酷い造形で、作り主のいい加減さが良く分かった。いや、元の作品を自ら壊してしまったのだろうか?何せ、壊すのが得意なご婦人のようであるから。
「申し訳ございませんでしたぁ!」
わーわー、と泣き叫びながら、母親はリビングの椅子から転げ落ちるようにして再び土下座をした。何故この母親はすぐに土下座をするのだろう。何にせよ、きっと慣れているのだろう。
「何とお詫び申し上げていいのか……本当に申し訳ございません……ああっ!」
「泣きたいのはこっちなんだよ。おいババア、俺が何回泣いたか、嫁の家族だってそうだよ、知らないだろ?惚けやがって。俺達がどれだけ苦しんだか、狂わされたか分かってんのかよ?」
「本当に……本当に……」
「何が本当だよ。一回でも詫び入れたんかよ?入れてねーよなぁ?マスコミが来た時だって無言押し通して引越し繰り返して逃げ回ってたもんなぁ!?どの口で息子を殺したい、死にたいなんて言ってんだよ。なぁ?どの口で言ってんだよ!」
「すいません……本当、すいません……」
「息子とテメェが死んだってまだ数足りねぇぞ。何人死んだと思ってんだよ」
「大勢の方の命を……」
「ちゃんと数言えよ。何人だよ?頭耄碌してたってパチンコの金勘定出来んだから、息子が殺した人の数くらい数えられるだろ。ババア、言ってみろよ」
「すいません……本当に……」
「それはどの意味の「すいません」なの?数を覚えてません、の?それとも息子がやった事に対して?それとも両方?」
「すい、ません……」
「まぁいいや。また来るわ」
彼の母親のくぐもった嗚咽を背中に、私は玄関を出た。私にはまだまだ、やるべき事があるのだ。
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