第29話 煉獄行
空港に着いてすぐに私は車を借り、街へ向かった。所々の景色が米軍基地の長いフェンスに阻まれたと思いきや、再び姿を現し始める。飛行機が空港に着いた時、すぐ真横に並んでいた戦闘機を見て私はここへやって来たのだと、実感していた。
通りから少し離れた海に目を見遣る。まるで偽物のような、残酷なまでに優しい青色をしていた。これが大戸の言っていた色なのか。確かに、それは東京湾のドブのような海とは同じ海とは思えなかった。しかし、私が大戸の生まれた島へやって来たのは海の色や空の高さに感動する為ではない。
事前にこの地の探偵事務所に調べさせていた住所へ車を走らせている間、私は私なりの復讐の果たし方ばかりに頭が向かっていた。それは正常な判断とは言い難いものかもしれないが、異常だとは微塵も思わなかった。人の命を奪ったイカれた男に、狂い負かされて死ぬような事だけは勘弁だった。それは命を奪われた女の為ではない。残された私の命の為に、いっそ狂って死ぬのならとことん狂い咲いてやるつもりだったのだ。
二階建ての小さなアパート。潮風の影響なのか、色を失くした壁が建物の古さを知らせている。その202号室の前へ立ち、私は冷静な面持ちを意識しながらインターフォンを押した。事件後に数回引越しを繰り返したようだったが、今なら少しは眠れる日が訪れるようになったのだろうか。その平穏を壊す為、安らかな眠りを失くした私はここにいる。
しばらくして、玄関が開く。小太りで愛嬌の良さそうな大戸の母が姿を見せた。
「はい。あの、どちら様です……?」
「村瀬と申します。大戸祐樹君の、元同僚の者です」
その言葉に、大戸の母は一瞬にして身を固くしたのが分かった。冷静さを欠いた顔で大戸の母は私を中へと手招きした。
玄関の奥の薄暗いリビングで、テレビがトチ狂ったような笑い声を立てている。テレビを眺め、笑える余裕がこの母親にはあるのだろうか。
「あの、なんでここが……」
「実は裕樹君と面会しまして、それから手紙で何度かやり取りをさせてもらっている中で、代わりに会いに行ってやってくれと頼まれまして」
「そうですか……わざわざ、本当遠い所申し訳ありません……あの、中へどうぞ」
「お邪魔します」
部屋は散らかってはいなかったが、開けられていない段ボールが所々に置かれていた。次へいつでも移れるようにしているのだろう。
「この度は……裕樹が、大変なご迷惑をお掛けしました」
そう言って、大戸の母は誰にとっても一円の値打ちもない、安土下座を私にして見せた。私はしばらくの間その姿を眺めていたが、テレビの端に埃が溜まっているのに目が入った。その埃を摘んで、食わせてやりたかった。
私はその姿を見下ろしながら、声を掛けた。
「お母さんがやってしまった訳ではないんですから、どうか頭を上げて下さい」
「そうはいかないです、こうやって、今だって……同僚の方にお越し頂いて……」
「あいつのやった事は確かに許せない行為です。けど、俺はあいつの良心を信じて、あいつという人間が好きでここにやって来ました」
私はそれまで殆ど使った事の無かった「信じる」などという言葉を吐いた。女が好きでは無かった言葉だ。自分の吐いた言葉が薄ら寒く、亜熱帯に居るのにも関わらず寒気がした。
「あの子の為にわざわざ……本当に、すいません」
「お母さん元気だったよって、そう伝えてやるつもりなんですから。顔を上げて下さいよ」
「すいません……」
事件後、大戸の母親はただの一度も面会に行ってないと井筒から聞かされていた。元々親子仲は悪かった所為なのか、手紙のやり取りはあったようだったが大戸が返事を書いたことはただの一度もないとの事だった。
報道陣に追われ、生活の場を転々とし、てっきり息を殺しながら生活をしているものだとばかり、私は想像していた。そうであったのもしれないが、人は環境に慣れてしまう生き物だ。それを裏付けるようにテレビは喧しく、騒がしく笑い声を立てていたし、テーブルの隅にはパチスロ専門誌が置かれていた。カレンダーには所々日付の下に丸とバツが書かれていて、その横には「¥」と数字が並んでいる。
この母親は息子の起こした事件を、どのような目で見ているのだろうか。きっと直視していないのだろうと、私は咄嗟に感じた。
事件後にマスコミが駆けつけた際、報道後、遺族の私達に対して謝罪の言葉一つすら聞いた事も、伝えられた事も無かった。
年に二回、沖縄に帰りはするものの実家には決して帰らないと大戸は言っていた。その時、彼の昔話を聞かされた事があった。
彼の家は母子家庭だった。父親は小学二年の時に蒸発して行方知れずになり、それ以降母親はパチンコにのめり込むようになり、相当な額の借金を積み重ねて行き、やがて闇金から金を借りるようになった。
小学六年のある日、授業中に借金取りが教室へやって来て母親の代わりに金を払うように言われた事があったそうだ。そんな事は小学生の大戸に出来るはずも無く、それを断ると借金取りは担任の教師から金を取り立てようとした。当然大きな騒ぎとなり、沢山の児童達の目の前で大恥を掻かされた。そして、その日家に帰ると母親はおらず、電気も止められていた。母親は逃げたのだ、と思った。
兄弟のいなかった彼はたった一人、家の中で身を潜めるしかなかった。何故なら、家の外では昼夜お構いなしで借金取りがうろつき回っていて、時折ドアを叩いたり蹴ったりするのだ。
「ガキ、バラして売るから出て来いや」
真夜中にそう叫ぶ借金取りに怯えながら、灯りの点かない暗い部屋で一人布団を被って夜をしのいだ。そうやって三晩が過ぎた朝、失踪したとばかり思っていた母親は彼氏と思しき髭の濃い男と共に手を繋ぎながら家に帰って来たのだという。
日中、空腹を満たす為に給食の出る学校へ行こうかと何度も迷ったそうだ。しかし、いつ現れるか分からない借金取りが怖くて外へ出る事も出来ずに家の中で水だけを飲み、三日間をやり過ごしていた。
家に帰って来た母親を見て、彼は母親が帰って来てくれたという安堵よりも真っ先に「これで何か食べられる」と思ったそうだ。しかし、帰って来た母親は家の中に取り残されてしまっていた彼を見るなり、突然こう叫んだのだ。
「何であんたが家に居るの!?学校は!?」
烈火の如く怒り出した母親の横に立つ男は、さぞ迷惑そうな顔で彼を見下ろしていた。母親の声に驚いた彼は借金取りの事も伝えないまま、急いでランドセルを背負った。そして、二人の前を横切った際、男にこう言われたそうだ。
「邪魔くせぇ、死んじまえよ」
大戸は家を飛び出した。その足で学校へ向かったが、ある変化が起きていた。それまでは学校の皆が彼を「おーぴん」と呼んで慕っていたが、久しぶりに会ったは皆は彼を見つけるなり「シャッキン」と呼び、囃し立てた。あの日、借金取りに凄まれた担任は彼が教室に居るのを見て
「なんだ、来たのか」
と、心なしか残念そうな声でそう言ったのだいう。
その日は家に帰りたくないと思い、辺りが暗くなっても家に帰らなかった。街の中を歩き回ったが自分の居場所など見つかる訳もなく、仕方なく家に帰った。しかし、玄関の前に立つと暗い家の中から母親の喘ぎ声が聞えて来て、彼は再び家の前から離れた。
私が最も愛し、契りを結んだ相手を殺した男はそんな幼少期を過ごし、海の綺麗なこの土地で育った。そして、そんな男を産んだ母が、今私の前で土下座をしている。
複数人を殺した罪が、たった一人の男の死で償えるのだろうか。あの事件により、間接的な死が遺族や友人達に山のように訪れただろう。それは私も含め。
「どうか、面を上げて下さい。伝えたい事があるんです」
私は笑みを零しながら、頭を下げている彼の母親に向かってそう言った。慈愛の笑みではない。これから伝える事に対してこの母親がどんな顔をするのか、それを考えるのが楽しくて堪らなかったからである。
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