第28話 波及

 ドラマのような造りの冷たい面会室。穴の開いたアクリル板の前で、私は大戸が現れるのを待った。彼は私との面会を断りはしなかった。


 何を話せばいいのだろう。加害者を前に、怒り狂うには時間が余りにも足りなかった。考えが纏まらない内に、重さに引き摺られた音と共に鉄製の扉が開かれた。

 係と共に姿を現した大戸は、鼠色のスウェット姿だった。髪が無造作に伸び、髭も伸び放題伸びていた。


 大戸を目にした際、私は怒りの感情よりも先に「久しぶりだな」という印象を持った。最愛の妻である女を殺した男を前に、私は何が正しい表現なのかを選択する余裕を失くしていた。


 パイプ椅子に座り、大戸は小さく会釈をしたが目は合わなかった。私は何をどう切り出していいのかも分からず、咳払いを一つした。


 事件の進展を期待している井筒は面会室の外で待っている。聞きたい事や話したい事を素直に言えばいいと言っていたが、何を話せばいいのか、妻を殺した大戸の前でどういう気持ちを持てば良いのか分からず、私は無言の殺人犯を前に急に手持ち無沙汰のような気分になった。


 アクリル板越しに、俯いたままの大戸を見る。目が充血しているようだったが、それ以上に唇が細々と動いているのが気になった。誰にも聞こえない程度の声で、独り言を呟いているようだ。この男が女を殺し、その他大勢の人達を殺め、傷つけたのだ。精神が病んでいるのかもしれないが、それでも精神が病めるだけ死んでしまった者よりもマシだろうと自分に言い聞かせた。


 薄ら笑いをするように、大戸の唇の端が持ち上がった途端、私は無意識にアクリル板に拳を叩き付けた。


「やめなさい! 面会を中止しますよ!」


 係の者に言われ、私は息を整えた。そうか、怒っているのだ。私は、この顔見知りの殺人犯を前に、怒ったのだ。怒りを感じ、詰られた事で私はかえって冷静になり、ようやく大戸に声を掛けた。


「なぁ、大戸」

「……」

「俺の愛してた人だったんだよ」


 女が結婚前に言っていた言葉を反芻し、喉が詰まりそうになる。


「ヒロは私が愛した人。それもずっと、忘れないでいて」


 約束するまでも無く、忘れられるはずも無かった。一番望まなかったはずの未来が、目の前の男の手により、一番真っ先にやって来た。


「大戸、知ってたのか」

「俺からは、何も言えないです」

「言えないって、おまえが言わなかったら誰が言うんだよ?なんで何も言えないんだよ」


 大戸は静かに首を振りながら、顔を上げて私を見た。死んだ魚の目より酷い、穴のような暗い目をしていた。それでいて、活気に満ち溢れているようにも思えた。禍々しいほどの喧騒を抱いたその目の奥が笑い、目尻に皺が出来ると大戸は歯を剥き出しにし、満面の笑みになった。私は、背筋に冷たいものを感じた。


「何でかって、村瀬さん……」

「……」

「俺も知りたいんです。助けて下さいよ、ねぇ」

「人を殺しておいて……おまえ」

「何でなんですか?何で、俺、生きてるんでしょうね?」

「人殺しといてそれかよ……知るかよ」

「俺、沖縄の海、また見れますかね? きっとまた見れますよね? きっと。でも村瀬さん……まだ、海は綺麗ですか?」

「……知らないし、おまえが海を見ることはもうないよ」

「海の事ですよ? 村瀬さんにはどんな海が見えてますか?」

「教えてやろうか? おまえの所為で真っ黒だよ。死ねよ、おまえ。何回も死ねよ」

「そんな、やだなぁ。俺、生きたいのになぁ……俺ね、村瀬さん、生まれて初めて生きたいって、今思ってるんですよ。凄くないですか? ねぇ、凄いですよね?」

「うるさい、黙れ……」


 満面の笑みのままそう訴える大戸を前に、私は脇に汗を掻くのを感じていた。一体どちらが被害者なのかも分からなくなり、肩が急激に重たくなった。景色が歪み始め、呼吸が荒くなった。

  台の淵にしがみつき、私は呼吸を整えて言った。


「おまえが生きる為に、何人も殺す必要あったんかよ?」

「どうなんですかね……結果的には、そうでしょうね」

「そうでしょうって……」

「なんていうか、奥さんのおかげっすよ。マジ忘れられないっすよ、刺されて振り返った時のあの顔」


  大戸は善悪を知らない無邪気な子供のように、声を上げて笑い出した。私は立ち上がり、アクリル板を殴り付けた。係の者が私ではなく、大戸に向かって何かを怒鳴り、面会は終了となった。


 大きくズレてしまった私の生は、元の軌道に戻る道筋を失くしていた。見つけたならば戻れたとは到底思えなかったのだが、ついに元の軌道に戻れないと決定的にしたのは大戸と会ったその日だった。

 私の愛した女は殺され、そして殺した男の生きる糧となり、笑われた。


 大戸は裁判が始まると、支離滅裂な発言を繰り返して世間の注目の的となった。


「ナイフは事前に用意していたのですか?」

「テディベアの三男から言われた通り作ったら、偶然出来たみたいっす」

「被告人、何が出来たのですか?」

「真っ青な、緑色の虫ケラ共が英語で喋ってるじゃないですか。アレです」


 地裁での死刑判決に対し、弁護団は上告をした。

 この国では精神が錯乱していて、まともな判断が不可能な場合には人を殺めても罪にはならないのだという素晴らしい言い訳をしていた。


 裁判が始まり、大戸の口から事件とは無関係な言動が繰り返されると井筒が私を訪ねる事は無くなった。もう、どうにもならないと悟ったのだろうか。

 私は長らく休業していた仕事を正式に退職した。やる事が出来たからだ。


 まともな思考を持たない人間が犯す事柄は罪にはならない。

 捕まる気など更々なかったが、私はその言い訳を使わせてもらう事にした。

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