第25話 蓄積する他人
携帯電話の電源は切れたまま、二週間が経った。昼夜問わず幾度も鳴らされるインターフォンの音に私は耳を塞ぎ、心を塞ぎ、布団の中で喧騒が過ぎるのを待った。窓の外からアパートの裏側を覗けば記者達が私の部屋の窓を指差した。
葬儀の日、報道陣に揉みくちゃにされた女の母は彼らの持っていた機材で頭を打ち、怪我をした。女の父の姿はその時どうだったか、記憶がまるで定かではない。
事件直後、田舎町で小さなスナックを営む私の母から連絡が入った。母から与えられたのは女の死を悔やむ言葉ではなく、私を叱責する言葉だった。
何故一緒に居なかったのか。何故一人で行かせたのか。何故報道陣が店に来るのか。記者とはきちんと話をしたのか。もっと訴えなければならない。保険金はどうなっているのか。分配は。幾ら入るのか。いつ入るのか。墓は決めているのか。近くにした方が良い。噂になると困るから、しばらく帰って来るな。どれもこれも、何一つ、答える気にならなかった。私は私を産んだ母に、死骸に湧く蛆を見ているような嫌悪感を抱いた。
朝も夜も不確かな部屋で、女の写真や遺影を目にする気には全くなれなかった。死んだ女の事を考えれば考える程、現実が遠退いて行った。
そうして更に幾日が過ぎた頃、一通の手紙が届いている事に気がついた。
女が生きていた最後の日、女は私に伝えたい事があると言っていた。それはどうやら喜ばしい事のようだったが、たったの一言も聞けないまま女は死んだのだった。
私は無意識に、本当に無意識に感情の錯誤を起こした。実は生前、女が急いで筆を走らせて私にそれを伝えてくれていたのではないかと、滅茶苦茶な期待をしてしまったのだった。
投函された茶封筒を手紙や葉書の山から毟り取ったが、宛名も、差出人の名前も一切記載されていなかった。それでも私はそれが女の手によって書かれたものである事を微かに願いながら、ゆっくりと茶封筒の中の白紙を取り出した。
結果は、愕然としたものだった。
——拝啓。村瀬様。突然のご不幸、お悔やみ申し上げます。私は新明社の井筒と申します。
事件の犯人、大戸容疑者が拘留されてから幾日か経ちますが、何故あのような凄惨な事件を起こしたかについては一切供述がないまま、ただただ、時間ばかりが過ぎようとしています。
大戸容疑者と村瀬様がかつて、同じ職場に在籍していた事を私は把握しております。
事件の被害者となった奥様の為にも、鎮魂の為にも、あのような惨事に至った経緯を知りたいと私は思っております。偶然だったのか?そう考えれば考えるほど、私には大戸に何らかの意思があったように思えるのです。
お話を伺えましたら、こちらまでご連絡をお願い致します。
私はその手紙の主に怒りすら忘れ、ただ失望の中で呆然と立ち尽くす他、何も出来なかった。
やはり、ここにも女が死んだ事実が記されているではないか。テレビを点けたらどうだ?そこにも、女の死が他の者達と同様に、朝から晩まで映され続けているではないか。しかも、犯人があの大戸だと言うじゃないか。誰がそんなものを信じろというのだ。そう、非常に巧妙に出来た作り話なのだ。女はきっと落ち込んだ私を見て何処かで笑っているに違いないんだ。不安を抱き易い女だったから、私を試しているのだろう。そうに決まっているし、そのうち女は笑いながら帰ってくるはずだ。何が死んだ、だ。何が被害者の女性だ。何が位牌だ、遺影だ、遺骨だ。帰って来たら、思い切り叱り付けてやろう。子供を本気で怒る親のように、何度も怒鳴りつけてやろうではないか。一瞬浮かび上がった私の感情は、すぐ真上にあった剛鉄の蓋にぶち当たり、落ちて怪我をした。あまりに痛過ぎて、声も、涙も出る事はなかった。
私がかつて女に伝えたように、私は女の死を受け入れる事がまるで出来ずに居る。それは見事なまでの正解だったのだが、女の死を受け入れるどころか、見る事すら出来ずに居る。
部屋の片隅でポトスはとうとう枯れてしまい、落ちた葉を片付ける気力すらない。私の部屋はゴミで溢れ返り、時折気まぐれを起こして料理をしていた女が使っていた台所も溜まった水が腐り始めて来ていた。女と過ごした証が、こうして次々と死んで行く。私も、私の中で何かが死んだ。それが何だったかなど、もう思い出す事すら苦痛でしかなかった。
転がる床の上で溜息を吐き、酒を煽り、糞をして、風呂に入り、また酒を煽り、意識を失くす。そんな生活がしばらく続いていたある日、私は埃が被り始めた携帯電話を目掛けてダラダラと体を運び、手に取った。長らく押していなかった電源ボタンを押すと、すぐにディスプレイが表示された。
未読メール件数 198件
その数字を見ても、心はまるで反応しなかった。ありがた迷惑だと、そう思う気力すら湧かなかないまま、私は手紙の主の電話番号を押した。
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