第24話 その血は意識の裂け目から

 昼前になり、私は女の為に夕飯の支度をしようか一瞬悩んだ。花火を観に行くついでに、混雑はしているだろうが何処かで食事をしても良いかとも思い、女にメールを送った。久しぶりに姉と会い、お喋りが長引いているのだろうか、すぐに返事は無かった。


 昼を過ぎても返信はないまま、私はレトルトカレーを食べながら特にする事もなく、テレビをぼんやりと眺めていた。そのうちやって来た午後の甘い睡魔に視界が少しずつ溶け始める。耳だけは睡魔から取り残されていて、目を閉じたまま、緊急ニュースを伝える急いたアナウンサーの声だけが聞こえて来た。


 夕方前に、インターホンの音で目が覚めた。起き上がってから無意識に携帯電話を操作したが、女からの返事はまだ無かった。

 玄関を開くと、インターホンを押した者が大家だった事で自然と意識が覚めた。初老で小太りの彼は、満面の笑みを浮かべながらビニール袋を差し出してきた。


「これ、奥さんとどうぞ。焼き過ぎちゃって」


 袋の中にはラップに包まれた焼きトウモロコシが二本、入っていた。


「あー、どうもすいません。美味しそうですね」

「こいつはね、美味いよ。今日花火でしょ? 昼真っから庭でバーベキューしてたもんでさ」

「楽しそうですね。天気晴れたし、バーベキューにも花火にも丁度良いですもんね」

「調子付いて呑んだもんだから、花火の前にバタンキューしちゃいそうだよ。花火、行くの?」

「はい、妻と散歩がてら行こうかと思ってます」

「いいねぇ、若いってのは」


 大家ははにかみながら去っていったが、だいぶ呑んでいたのだろう。アルコールの呼気が玄関に僅かに漂っていた。キッチンにトウモロコシを置き、洗面所で顔を洗うと携帯電話が鳴った。女だと思い、ディスプレイに目を向けると知らない番号だった。一度無視したが、呼び出し音が切れると立て続けに携帯電話がなった。


「誰だよ、ったく」


 舌打を漏らしながら電話に出る。相手はまるで聞き覚えの無い野太い声の男だった。


「村瀬ヒロトさんの携帯電話でよろしいでしょうか?」

「はい、そうですけど。どちら様でしょうか?」

「万世橋警察署です」


 警察?私はぞわぞわと、不安の沼に足元を掴まれる感覚を抱いた。ぬるぬると滑り、そうなるともう決して抜け出せはしない沼の青臭い匂いさえもした。


「確認して頂きたい事があります、落ち着いて聞いて下さい」


 女が通り魔に遭い、死んだ。花火大会を告げる空砲が外から響く夕方、私はそう電話で告げられた。

 何処をどうやって進んだのか、分からなかった。外へ出て、車に乗り、浴衣姿の波間を縫った。そこまでは覚えていた。

 病院の地下。私の他に、何人もの人が居た。皆が皆、冷静では無かった。冷たくなった女の前で、私はついに、まともな意識を保てなくなった。


 「死亡者三名、負傷者七名という凶行により現行犯逮捕されたのは静岡県在住、無職の大戸容疑者ですが、依然として犯行理由を黙秘しており、警察は取調べを続けています」

「えー、重体で運ばれた男性ですが、先程死亡したとの事で、これで死者が四名に」

「現場ニ残サレタ血痕ハ、マダナマナマシク」

「コチラゲンバジョウクウウデス! ハンニンハ、アノゴカイダテノビルノロジウラカラ、キセイヲアゲナガラトビダシ」


 何もかも、受け入れる事が出来なかった。顔だけは眠ったままのような女の亡骸も、女に縋る女の姉と両親も、刑事が何人いたのかすらも。私は何か喋ったようだったが、一切、何も覚えていてはいない。私は骨になった女と、それを入れる為の骨壷を見た瞬間、胃が痙攣して骨上げ台に吐いた。骨と吐瀉物が混ざった。突然過去になってしまった女を突きつけられ、私は正気が保てずに叫んだらしかった。

 葬儀が終わっても私は眠ることが出来ず、窓の外が暗くなったり明るくなったりする意味不明な時間の流れだけを感じていた。もう、私も含めた全ての日常や命の意味など、どうでも良くなった。

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